■日本発の独創的なリバタリアニズムの思想が現われた





福原明雄『リバタリアニズムを問い直す』ナカニシヤ出版

福原明雄さま、ご恵存賜りありがとうございました。

大変すばらしい思想書であり、オリジナルな議論だと思います。世界的にみても、新たな視角でリバタリアニズム思想の幅を広げています。このような知的冒険の成果を一冊に結晶化されましたことを、心よりお喜び申し上げます。大変な刺激を受けました。
自己所有権を正当化するさいに、その人格が一定の道徳能力をもっていて、その能力には優劣があるとしても、人格としては「等しい存在」として扱われなければならないこと、またその人格は、ノージックによって、「自分の人生に対して意味を付与する能力」をもった存在として尊重されていること、こうしたことは「自己著述性(self-authorship)」として表現できる、というわけですね。
しかしこのauthorshipという言葉は、それだけを取り出してみれば、人間がたんに「意味」を付与するというだけでなく、「自分の人生の物語を書く」という、もっと高い能力を要求していないでしょうか。この「物語を書く権利」を売ることができるかどうかです。できるとすれば、そこにおいて想定されている人格とは、権利を売り買いする決定権をもった人、という意味になるでしょう。そうするとメタ・レベルで想定されているのは、「自己決定権(性)」ではないでしょうか。
もちんこれは理論上の問題であり、私は他者とその権利を売買しなくても、勝手に他者の物語を書くこともできます。他者のプライバシーについては書けなくても、他者の人格としての物語については、書くことができます。しかしこのようなauthorshipは、問題にならないのかもしれません。
authorshipに注目した場合に、それは他者の前に現れる人格について書くことの権利ではなく、他者のプライバシーについて書く権利を売買する、ということを想定してもよいかもしれません。ここら辺、authorship概念の十分な検討が必要のようにも見えます。
最終的には、このauthorshipはあまり効いてこないようで、リバタリアニズムの分配原理について擁護する際には、「意味ある生を送る機会の十分性」という基準が大切であるとされています。この「意味ある生」は、私たちがどんな社会で生きるのか、に依存しています(210)。例えば格差が広がって、低所得の生活では「人生は無意味」と感じられるような社会はどうでしょう。「意味がない」と感じて自殺者が増えるような社会では、おそらくリバタリアンといえども、所得再分配を強化したり、自殺防止策などによる生活への介入も許容することになるかもしれませんね。
自分の生には「意味がない」ということについて訴え、著述するためにはauthorshipが必要です。しかしそのようなauthorshipがあっても、意味がなければ、やはり所得を再分配することが正当化されます。しかも「意味ある生」は、民主主義の下では、所得再分配の正統性が問題になるかぎりでは、最終的には他者による判断によって正当化されます。するとauthorshipよりも、私たちが間主観的に世界において、他者の生を意味ある生として受け止めることができるのか、そういう判断が最終的なものになるようにも見えます。このあたり、リバタリアンであれば、人はauthorshipを持っているかぎり、すでに意味ある生を生きているはずである、と理解するのかもしれませんね。

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