■不正義の感覚からはじめる政治

 


ジュディス・シュクラー『不正義とは何か』川上洋平/沼尾恵/松元雅和訳、岩波書店

 

川上洋平さま、松元雅和さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 この本の原書は、1990年に刊行されました。以来、この本は、政治思想の分野で話題になってきましたが、ようやく邦訳の刊行がかなったのですね。心よりお喜び申し上げます。

 この本を読むと、哲学に対するシュクラーの嗅覚が、抜きんでていることが分かります。哲学史には、懐疑主義の伝統があります。例えば、アウグスティヌス、モンテーニュ、キケロなどの思想家の思想です。こうした懐疑主義の立場は、「不正義」の概念を通じて、いかにして政治とかかわることができるのか。知に対する懐疑は、無知への洞察でもあり、それは不正義を告発する作法を生みだすことができる、というのですね。

 この懐疑主義の伝統を背負って、シュクラーは「不正義の哲学」を展開します。その立場は、市場における交換的正義を批判するものです。

「見えざる手」の立場、すなわち、アダム・スミスのような市場の秩序化の立場は、市場は不正義を生むことがない、とします。しかし誰かが苦しんでいるのを傍観するのは、受動的不正義であります。そのような不正義を許すことはできない、というのですね(152)

 しかしシュクラーは、自分の兄弟姉妹が、リバタリアニズムの思想を支持しているといいます。かれらは、相続税に対して、強い不正義の感覚を持っている(231)。シュクラー自身は相続税に賛成だけれども、兄弟姉妹たちは反対だと。リバタリアニズムの立場の「不正義」感覚では、市場経済を徹底的に自由化した方がいい。これに対してシュクラーの「不正義」感覚では、正反対の規範を支持するわけですね。

 リバタリアニズムの立場からすれば、相続税を課せられている人たちをたんに傍観しているだけでは、受動的不正義なのであり、相続税反対の声を挙げなければならない、ということになります。市場自体が不正義を生むことはないけれども、政府は不正義を生むのだ、ということになるでしょう。

 人によって、不正義の感覚は異なります。

加えて、政府の施策や事故や自然災害などに対する憤りの感情は、報復、復讐、仇討ち、応報、恩赦の要求など、いろいろあります。こうした感情は、必ずしも「不正義の感覚」に回収できないでしょう。かりに不正義の感覚に回収できたとしても、その不正義に対処するためには、正義による解決ではなく、政治的な「善」による解決を求めることになったり、あるいは勢力の反転や交代による解決を求めることになったり、いろいろな方法があるでしょう。

 この特定の災害、この特定の事故、この特定の私の境遇は、私の人生に「見合っていない」というundeserveの感覚がまずあって、この感覚が、不正義injusticeや不公平unfairnessから正義へ、疎外から革命へ、絶望や苦しみから「恩寵graceや慈悲benevolence」へ、苦しみから「救済relief」へ、など、さまざまな要求へと向かっていく原動力となります。不正義の感覚から正義を要求するというのは、その中の一つのパタンであり、それは、民主主義的・市民的な統治によって、最もすぐれた解決力を与えられるのでしょう。

 この他、人はなぜ、多くの場合、不正義の声を挙げずに、自らの自尊心が傷つけられないことを優先するのか。この点についてのシュクラーの考察は、とてもすぐれていると思いました。声を上げるのか、自尊心を維持するのか。この問題は、重要だと思います。


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