■アナーキズムの不可能性について

 



 

森政稔『アナーキズム 政治思想史的考察』作品社

 

森政稔さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 アナーキズムの政治思想史として、ゴドウィン、シュティルナー、マルクス、プルードン、タッカーについて検討しています。

 アナーキズムの思想史は、アナキストたちによって研究されることが多いので、思想的関心からその現代的な意義を評価する、ということになりがちなのですね。ところが森先生はそうではなく、アナーキズムというのは、どんな民主主義的統治にも限界や矛盾があるのだから、その限界や矛盾を明らかにすべきだ、という批判的関心から、その意義を検討しています。アナーキズムを一つの体制ビジョンとして積極的に擁護するのではなく、支配的な体制のもつ政治的正当性を有効に批判する、という関心ですね。「アナーキズム的なもの」という言葉で表現されていますが、これが現在、どんな役割を果たしうるのか。

 森先生もおっしゃるように、それはなかなか難しいですね。

 アナーキズムというのは、共産主義を目指す左翼の内部で、内在的に批判する思想として機能していた。そのような批判に、思想的な役割と意義があった。ところが共産主義思想が衰退すると、アナーキズムの役割もまた、失われていくのですね(62)。そうしたなかで、今度は右派のアナーキズムが台頭する。ロスバードやノージックのようなリバタリアン、あるいはアナルコ・キャピタリズムです。

 歴史的には、アナキストたちが、ファシズムに傾倒していくという当惑すべき事態が起きました。またアナーキズムは、右派的なリバタリアンに当惑して、これを有効に批判する価値観点を示すことができていない、という問題もあるのでしょう。

 そうした中で、いまアナーキズムから、何を学ぶことができるのか。それは例えば、プルードンの著作のなかで、彼が「能産的自然」について語ったことや、人口について論じたことなど、アナーキズムのテキストから何か別の、面白そうな契機を見つけようということですね。

 アナーキズムとファシズムのあいだにあるきわどい関係というのは、私なりに解釈すると、私たちが権威に抑圧されずに全人的開花を遂げる、あるいは自らのポテンシャルを十分に発揮する、ということが目標になるとき、やはり何らかの社会的な装置や人間関係が必要になるわけで、それは別の権威を招き寄せると思いました。

真のアナキストは、自分の能力を開花させるときに、あらゆる権威を必要としないのかもしれません。しかし権威を否定すれば、人間は自らのポテンシャルを十分に発揮するのかというと、そうではない。ではアナーキズムはどこに向かうのか。ポテンシャルを発揮する必要はないというリバタリアンの立場に向かうのか。

 本書の最後で触れられているように、いま左派は、新自由主義を批判して何もオルタナティヴを提案しない。そういう状況で、支配的な左派をアナーキズムの観点から批判しても、さらに閉塞的な思考に追い込まれる。それがいま、アナーキズムの不可能性を特徴づけているというわけですね。


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