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■生産的な消費とは

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マーシャル『経済学原理』第一巻、西沢保 / 藤井賢治訳、岩波書店   西沢保さま、藤井賢治さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    マーシャルの『経済学原理』の新訳です。本書はその第一巻であり、このあと、第四巻まで予定されているのですね。経済学の古典の新しい翻訳の刊行を、心よりお喜び申し上げます。  この第一巻は、前半が本文で、後半が付録のエッセイ集になっています。注がたくさんあり、実質的な本文の量は、相対的に少ないですね。主に、経済学の基本概念と、方法論について述べられています。 マーシャルは基本的に、バランス感覚のある人で、経済学という学問が、快楽主義や市場原理主義に対する批判をこえて、学問として正当であることを説明します。利己主義の観点に立たなくても、経済学を擁護できるというわけですね。これはいまの時点からみると凡庸ですが、このようにバランス感覚をもって学問を擁護する人が現れると、学問は一つの「パラダイム」になって普及していく。そのような経緯があったのだと思います。  マーシャルは、経済学という学問が、専門用語ではなく日常用語を用いるので、さまざまな誤解や一貫性のなさに陥ることを、ていねいに省察しています。そして、ある一定の方向に、経済学の価値観を体系的に展開しています。  例えば 84 頁ですが、「現在の欲求よりは将来の欲求に備えようとする労働はとくに生産的だと言われる。」とあります。現在のぜいたく品を買うために労働するよりも、将来のさまざまな欲求充足のために労働する方が、生産的な労働であるというのですね。これは一つの価値観であり、生産力主義的な価値関心だと言えます。  類似の問題として、消費が生産的であるかどうか、という問いは、興味深い問いの立て方です。「ニュートンやワットのような人が、彼の個人的支出を倍増させることによって、能率を1%でも上げることができるのであれば、消費増加分は真に生産的であろう。」 (89)  マーシャルは、このような価値判断を地代の問題に応用します。消費によって、その消費した貨幣額を超える生産が帰結するのなら、その消費は生産なのですね。この「消費 = 生産」という視角は、次のような道徳的判断を導くように思います。  もし所得が増えて消費が増えたときに、その消費の増...

■贈与の履歴をブロックチェーン化する

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荒谷大輔『贈与経済 2.0 』翔泳社 代真理子さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   ある人に贈与する。そしてその事実を、ブロックチェーンで記録して、 150 人以下のコミュニティで、情報を共有する。するとそのコミュニティでは、贈与すればそれだけ信頼を勝ち得ることができる。そのような「贈与→信頼」のコミュニティを作ってはどうか、という提案ですね。  私はこの贈与経済のコミュニティに参加したいと思いますが、しかし同時に、これは怖いシステムになるかもしれないし、成功しないかもしれないし、という不安もあります。  不安の一つは、自分が贈与したことに対して、コミュニティがあまり評価しない可能性です。すると一年後に、私はもしかすると、 150 人中、 150 番目の信頼度しか勝ち取ることができないかもしれません。するとどうなるでしょう ? 私はおそらく、脱退したいと思うでしょう。そして新しいコミュニティに参加したいと思うでしょう。しかし、あるブロックチェーンのコミュニティで低く評価された私を、別のコミュニティは受け入れてくれるのでしょうか。不安です。 この場合、ブロックチェーンのコミュニティは、すべて自発的結社です。それぞれのコミュニティは、誰が参加できるかを決める権利をもっています。すると、他のコミュニティで低く評価された人を、受け入れないかもしれませんね。 このような問題を解決するためには、贈与経済 2.0 は、メタ・コミュニティの視点で、コミュニティ間のルールを決めなければなりませんね。しかし誰がメタ・コミュニティのルールを決めるのでしょうか。自生的に、すぐれたルールが生まれるのでしょうか。不安です。 もしかすると、ほとんどフリーライドするようなメンバーが 9 割くらいになって、贈与されても「負債の感覚」や「何か返さないといけないという罪悪感」をまったく抱かずに、ひたすら「フリーライドで儲かる」という感覚で参加するような人も出てくるかもしれません。そのような場合、贈与経済 2.0 は成り立つのでしょうか。  おそらく、うまくいく贈与経済のコミュニティは、メンバーを制限するのでしょう。フリーライドは一定以上認めない、というルールを作って、参加者を選別するのでしょう。  しかしそれにしても、私が贈与できて他人に...

■今年聴いた音楽5選(2024)

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  那須耕介さんが亡くなられて、 3 年と3か月が経ちました。皆様、いかがおすごしでしょうか。年の瀬が迫ってまいりました。  *  今年私が YouTube で出会った音楽のリストをご紹介します。 110 曲くらいです。   https://www.youtube.com/watch?v=kKPY_VzZ3EM&list=PLFExZbc_M4ZO_Sffukx_ZaFN0iJ3kBxyR    今年は、 1 月に沼野雄司著『トーキョー・シンコペーション 音楽表現の現在』音楽之友社を読んで、大いに刺激を受けました。 昨年は雑誌「レコード芸術」が休刊となり、クラシック音楽ファンにとっては残念なニュースでしたね。沼野さんは、それまで「レコード芸術」にエッセイを寄せていたのですが、余儀なく中断されました。本書は、それまでに寄せられた連載のエッセイと、その続きを収めています。 とくに、現代日本の作曲家たちの紹介が興味深いです。まだ CD 化されていない、けれども YouTube で聴くことができる、最新の日本現代音楽のシーンがたくさん紹介されていました。私と同世代、あるいはさらに若い世代の作曲家・演奏家たちが活躍しています。その創作活動から、大いに刺激を受けました。 一方で、今年の夏、私は韓国に行く機会がありました。この機会に、韓国の「国楽」と呼ばれる伝統音楽の CD を、ネットでいろいろ調べてみました。するととても興味深い。韓国の国楽の CD は、 YES24 というサイトで検索したり購入したりすることができます。 https://www.yes24.com/Mall/Main/Music/003?CategoryNumber=003 日本にも「雅楽」がありますが、韓国の場合、政府が国楽の演奏家たちを育て、そのなかから国民的な音楽が生まれています。 YouTube にも、すてきな国楽の演奏がたくさんありました。国楽は、観光資源としても文化資本としても、きっと多くの人を惹きつけるでしょう。また、韓国では国楽の一部が現代音楽化して、真に芸術的な音楽が生まれています。私は一時期、国楽の沼にはまりました。 *  今年、印象に残った音楽をあえて 5 つ選んでみますと・・・   ■まず、バ...

■社会主義の具体的なデザインとは

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松井暁『ここにある社会主義』大月書店 松井暁さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    最近、松井先生の最新刊をお送りいただいたばかりですが、すみません、前著からコメントさせていただきます。 本書は、「ここにある社会主義」というテーマで、いまどんな実践が社会主義の社会を作っていくのかという問題に、具体的な指針とビジョンを与えています。   2020 年の意識調査で、「現在、社会主義の理念は社会進歩にとって大きな価値をもつか」という問いに「そう思う」と答えた人の割合は、日本では 21% でしたが、多くの国では 50% 程度になりました。アメリカでも 39% 。日本よりも高いですね。中国では 84% と断トツです。ちなみにロシアは 55% でした。  社会主義という言葉を使うとき、本書のように、「ソ連・中国のようなソ連型社会体制を社会主義とは認めません」 (21) 、それに対して「北欧諸国は今日の世界で最も社会主義に接近している」と評価するのは、私は、適切ではないように思います。むしろ、「いい社会主義」と「悪い社会主義」という言い方をした方がいいのではないでしょうか。  ソ連も中国も、思想としては社会主義であり、いい社会主義の国を作ろうとしたし、いまも作ろうとしている。まずこの点を認めよう、ということです。その上で、しかしなぜ社会主義の建設は、悪い社会主義になってしまうのか。この問題を分析し、説明することが必要だと思います。この点が、自由主義と社会主義のあいだの最大の論点だと思うのです。  もう一つの論点は、労働者と市民が生産手段を共有して、自らの意思で運営するという社会主義の理想です (26) 。このような理想を、国家と市場のいずれも媒介にしないで、どのように運営することができるのでしょうか。このビジョンをどこまで真剣に探求できるでしょうか。私はここに、社会主義の問題があると考えます。もしコーポラティズムをこえて、社会主義にいたる道筋を具体的に描くことができないとすれば、私はこの生産手段の共有のビジョンは、コーポラティズムで止まっている、と思います。これまで誰が、コーポラティズムを超える社会主義のビジョンを具体化したのか、という問題です。  他方で、日本で 2020 年に、「労働者協同組合法」が成立したのは興味深い...

■リベラルなフェミニズムはいかにして可能か

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  野崎綾子『新版 正義・家族・法の構造転換 リベラル・フェミニズムの再定位』勁草書房 井上達夫さま、池田弘乃さま、松田和樹さま、野崎努さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   本書は、 2003 年に刊行された本の新版です。新たに、川崎修、斉藤純一、ダニエル・フット、松田和樹、池田弘乃の各氏の論稿を、第三部に収録しています。 野崎綾子さんは、 2003 年に亡くなりました。 32 年の生涯でした。しかし、これだけすぐれた研究成果を残されたことは、本当に驚きです。文章から、知性の類まれな機微が伝わってきます。私は自分が論じていることの甘さを、再点検しなければならないという気持ちにさせられます。 解説で井上達夫先生が述べられているように、野崎綾子さんは、まさに「天に祝福された人」であり、才能に恵まれていたことが分かります。本書は、現代の思想的な問題を先駆けて論じています。大きな問題を正面から受け止めて、一貫した態度で論述を進めるその技量は、本当にすばらしいです。  フェミニズムはこれまで、リベラリズムに反対する思想であるとみなされてきました。しかし、フェミニストたちがリベラリズムに反対する三つの理由をすべて受け入れたとしても、リベラルなフェミニズムは成立する、というのですね (7) 。   (1) 女性問題を、「個人の内部に残っている差別意識」「意識の遅れ」「女性の主体性の欠如」等の、非構造的な要因に帰着させうるかどうか。この問題に「否」と答えたとしても、リベラルな立場を採ることができます。リベラルな立場は、自由放任の立場ではない。社会構造をリベラルなものに変革しようとする立場です。女性問題を非構造的な要因に帰着させるわけではありません。   (2) 女性問題は、近代化の徹底、女性の主体的意識の確立などにより、自然に解決していくと判断できるかどうか。この問題に「否」と答えたとしても、リベラルな立場を採ることができます。依存関係を認め、その依存のあり方を、公平にするという発想は、リベラルな発想です。   (3) リベラリズムという社会構想のなかに、すでに女性問題を解決しうる社会構想が十分に含まれているといえるのかどうか。この問題に「否」と答えても、リベラルな立場を採ることはできます。それはリベラリズムを新た...

■晩年の小林秀雄はなぜ失敗したのか

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橋爪大三郎『小林秀雄の悲哀』講談社メチエ   橋爪大三郎さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   一読して、これはとても重要な研究であると理解しました。本書は、小林秀雄に対するきわめて破壊力のあるパンチだと思います。晩年の小林秀雄は、本居宣長論の連載に取り組んだのですが、それは大きな失敗だったというのですね。 ではなぜ失敗だったのか。そしてもし成功させるとすれば、本居宣長をどう論じるべきだったのか。この二つの問題に、本書は答えています。 まず、小林秀雄はなぜ失敗したのか。端的に言えば、小林秀雄には、この日本社会がどうあるべきかについてのビジョンがなかった、ということですね。社会規範構想を論じるための枠組みがなかった。小林秀雄は、ただ本居宣長の肉声を聞くという、感性的な方法で、本居宣長のテキストと向き合っていた。 ところが本居宣長のすぐれた点は、彼の「肉声」にあるのではないのですね。書かれた「テキスト」にある。純粋に学問的に、自分の研究を成し遂げようとしたところにある。これに対して小林秀雄は、学者の学問というものを軽蔑していて、学者の学問がもつ意義を理解できていない。本居宣長がどのようにすぐれているのか。それは思想史を学問的に読み解くための知識と準備がなければならない。ところが小林秀雄には、それがないのですね。  これはきわめて厳しい批判であると思います。  本居宣長は、 35 年かけて『古事記伝』を書いた。国学を儒教から独立した学問として確立した。これはきわめて大きな達成です。 日本では平安時代以降、神道は、仏教に従属していました。江戸時代になると、今度は儒教と神道が融合します。しかし本居宣長の貢献によって、「国学」が確立すると、神道は、仏教や儒教と独立した世界として現れます。 国学は、日本の自前の思想である、ということになります。国学は、日本人のナショナル・アイデンティティを作るために必要な、神話を提供するのですね。そしてこの国学によって純化された神道は、大日本帝国の思想を提供します。 この国学と神道と大日本帝国の複合体、すなわちナショナリズムのイデオロギーを、私たちはどのように受けとめるべきなのでしょうか。本居宣長を論じるということは、このナショナリズム思想の源流をどのように受けとめるべきか...

■東京五輪音頭、建国音頭、増産音頭を聴いてみた

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遠藤薫編『現代日本の〈国家意識〉とアジア 二つの東京オリンピックから考える』勁草書房   遠藤薫さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。     1964 年に開催された東京オリンピックで、最も有名になった曲は「東京五輪音頭」だったのですね。三波春夫のバージョンが最も人気だったそうですが、他にも、橋幸夫、坂本九、北島三郎・畠山みどり、大木伸夫・司富子、つくば兄弟・神楽坂浮子などが歌いました。しかし三波春夫のレコードは、 130 万枚も売れたのですね。すごいです。私も YouTube で見ましたが、いいですね。  当時は、「東京音頭」も流行っていました。この曲は、元々は、 1932 年に、丸の内の界隈の旦那衆が、丸の内のための盆踊りの曲を、西条八十と中山晋平のコンビに発注したということですね。つまり元々は、丸の内のための曲だった。ところが翌 1933 年に、歌詞を変えて、東京音頭としてリリースされたのですね。興味深いです。 東京音頭は、戦時中に流行ったわけですが、その当時は政府もまた、いろいろな音頭を発注して作っていた。例えば、「東京祭」「選挙音頭」「建国音頭」「増産音頭」などです。しかしどれも、成功しなかったようですね。これに対して東京音頭は、旦那衆の遊び心で作られたから、人びとの間で広まったと。興味深いです。  「建国音頭」(唄:小唄勝太郎、市丸、楠木繁夫)を、私も YouTube で聴いてみました。歌も作曲もとてもいいですね。しかしそれでも流行らなかった。 https://www.youtube.com/watch?v=NFm7-oEVrf0 「増産音頭」 ( 波岡惣一郎・鈴木正夫・小唄 勝太郎・市丸・山本麗子 ) は、 1943 年に作られていますが、これもいい曲ですね。 https://www.youtube.com/watch?v=q3gIrRspm1Y 増産することや、戦争することに対して、まったく緊迫感がない。庶民の感覚で受け入れられるようなものとして歌われている。不思議な感覚になりました。しかもこれらの曲は、いずれも東京音頭を作曲した中山晋平が作ったのですね !  建国とか増産といったテーマが、庶民的な曲として作曲依頼されていたこと。しかもその曲のクオリティが高いこと。それでも流行ら...

■社会的関係資本を最大化すべきか

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石井まこと / 江原慶編『多様化する現代の労働』法律文化社 金子創さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   第三章、金子創「社会関係資本の格差とネットワークへの参入行動」を興味深く拝読しました。  ゲーム理論の観点からすれば、インフォーマルで互酬的なコミュニケーションにおいても、それが自分にとって納得がいくコミュニケーションなのかどうか。そこには戦略的な駆け引きが生じます。 この駆け引きをめぐっては、進化論的な観点から、自分の行動(ネットワークへの参入)を最適化できるかもしれませんが、その最適化は、自分の利益のために、搾取を受け入れることを意味するかもしれませんね。  社会的関係資本を最大限に形成するという目標に照らして、そのためにはどんな社会的条件が必要なのか。この問題を考えることの難しさは、「富の増大」「フリーライドの許容度合い」「搾取の許容度合い」の三つが、どのように選好されるのか、そしてインセンティヴとなりうるのか、という問題と絡んでくるからでしょう。フリーライドの可能性がある場合には、社会的関係資本が最大限に形成されるように行動することは、難しいですね。  ゲーム理論で設定される各プレーヤーの利得の数値に、これら三つの問題がすべて反映されるとしても、しかし規範理論的には、これら三つの問題を区別して論じたいところです。私たちは、社会的関係資本のようなコモンズを最大化したいのか、それとも富を最大化したいのか、それともフリーライドや搾取のような不公平な関係を最小化したいのか。各プレーヤーは、この問題に対して、異なる選好をもっていると想定しましょう。そして最適な進化論的解答が得られたとしましょう。しかし問題は、最初の段階で、プレーヤーの選好をどのように想定するかですね。そんなことを考えてみました。

■社会主義と自由主義をめぐるワルラスの立場

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ワルラス『社会経済学研究』御崎加代子 / 山下博訳、日本経済評論社   御崎加代子さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   レオン・ワルラスの古典的な名著(同書の第二版、 1936 年刊行)の翻訳の刊行を、心よりお喜び申し上げます。  ワルラスによれば、社会主義と自由主義の違いは、社会主義は「完全への可能性」を求めるけれども、自由主義は、「改善可能性 (perfectibilité) 」を求める点にある、というのですね。完全な徳や富を求めて教条主義になるのが社会主義であり、これに対してそのような教条主義を恐れて、専制を嫌悪するのが自由主義であると (6-8) 。  しかしワルラスは、この二分法にためらいがあります。私たちはやはり、理念の上では完全を求める。完全を求めるのが科学的な態度だ、というのですね。ワルラスは、科学的には社会主義者の立場を表明し、政治的には自由主義者の立場をとるといいます (17) 。  この二つの態度をバランスよく両立させるためには、科学的な研究によって得られる知見が、政治的・政策的に取り入れられる場面で、限定的なものになるように配慮する必要があるでしょう。ワルラスはこの点で現実的であったようにみえます。 もし科学的な態度で計画経済を正当化すれば、それは社会主義です。しかしワルラスが提案するのは、土地にどんな税金をかけるか、地租をどのようにして公平に徴収するか、という問題に関することに限定されています。  ワルラスは、たんに自助努力を良しとする社会(組合主義もまた自助の理念から正当化されます)ではなく、連帯の社会を展望します。そして生存権を擁護する際にも、この権利には卓越の理念が含まれるとして、労働者が芸術に触れる機会を提供することが重要であると考えます (120-121) 。この点は、たしかに評価できると思います。 1930 年代の社会民主主義は、生存権を卓越主義と結びつけるようになった。これは重要です。  その一方で、私がワルラスに反対するのは、民主主義が真理であるかどうか、正義であるかどうかという問題を、幾何学や天文学の原理と同じように科学的に証明できる、という発想です (130) 。これは科学主義的な態度といえるでしょう。「このように、科学に関する限り、われわれは臆せずに、...

■消費者団体が公平な市場競争を促す

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丸山千賀子『欧米の消費者団体 消費者政策のステイクホルダー』開成出版   丸山千賀子さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    最新の消費者団体の動向を、新しい調査と資料に基づいて整理されています。多くを学びました。  アメリカの消費者団体の「コンシューマー・レポート」は、最近 2022 年に、コネチカット州で、「個人情報保護法(コネチカット州データプライバシー法)」を、州議員と協力して成立させたのですね。興味深いです。消費者団体が法律の制定に貢献している。  またアメリカの連邦議会は、コンシューマー・レポートが賛同している「自動車の安全性改革」を盛り込んだ法律を成立させたのですね。飲酒運転を防ぐ技術の導入を、新車に義務づけた。これによって年間 9,000 人の命を救うことができるようになったのだと。  コンシューマー・レポートは、 150 以上のパートナーシップを結んでいる。パートナーシップとは何か。それは、商用、調査・報道、ライセンス、慈善団体、規制・調査の五種類に分けられる。例えば商用のパートナーシップで、コンシューマー・レポートは TrueCar 社と連携して、消費者に対して有用な情報を提供するようになった。消費者は、新車・中古車の価格、在庫状況、他の消費者が支払った価格などを知ることができるようになった。このようにしてコンシューマー・レポートは、フェアな価格競争を促しているのですね (18) 。  イギリスの DMU= デジタル市場ユニットという組織も、興味深いです。 DMU は、政府の「競争・市場庁」のなかに設立された組織で、グーグルやメタなどの巨大なプラットフォームに対して、サービス内容や個人データの利用方法、広告表示などに透明性を求めている。この組織の活動は、市場競争を適正なものへと促すことなのですね (52) 。  イギリスでは認定された消費者団体に対して、 2002 年以降、「スーパー・コンプレインツ」という、競争・市場庁に訴える権限を与えた、というのも興味深いです。  消費者団体は、政府や市場から独立した自発的結社であり、市民社会の組織ですが、それが政府や市場(企業)とどのように協力して、市場の公正かつ競争的な秩序を作っていくのか。この問題に、本書はさまざまな事例で迫っています...

■新自由主義と市民社会は両立するか デンマークの教育政策から

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  坂口緑『多文化化するデンマークの社会統合 生涯学習が果たす役割とその可能性』花伝社   坂口緑さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    二年前に提出された博士論文を、さらにブラッシュアップして、このようなすばらしい本にまとめられましたことを、心よりお喜び申し上げます。  コミュニタリアニズムの思想が、教育や移民対応の現場でどのような意味をもつのか。デンマークの事例を、インタビューを通して具体的に明らかにされたことは、大きな成果であります。本書は、市民派コミュニタリアニズムの言説を濃密に紡いでいると思います。  そもそもデンマークでは、 12 歳から 25 歳まで、学校を中退してそのまま労働市場に参入した人が、 1990 年に 25.4% に上昇したというのですね (99) 。政府はこれを問題視して対策を立てますが、しかしその後も、だいたい 20% 前後で推移している。およそ五人に一人は通常の教育制度から外れている。政府としては、 95% の人が中等教育を修了できるようにしたいのだけれども、それがうまくいかない。教育に失敗している。そこで「生涯学習」という理念が、教育政策の現実的な目標になってきたのですね。  教育問題を解決する際に、デンマークでは、ボランティアによるアソシエーション(自発的結社)に期待が寄せられました。デンマークでは、およそ三人に一人が何らかのアソシエーションに参加しています。国全体で、アソシエーションは約 10 万団体もある (170) 。その大半は、スポーツ団体ですけれども。アソシエーションは、「学校の次にデモクラシーを学ぶ場」であると認識されている、というのは興味深いです。  日本では、アソシエーションとしての各種 NPO 団体が、体育館や図書館の運営など、政府のサービスを請け負う場合があります。デンマークでもそのような仕組みがありますが、ではアソシエーションへの下請けは、労働の搾取にならないでしょうか。デンマークの人々にインタビューしてみると、どうもそのような意識はあまりないのですね。  政府がアソシエーションに業務を委託するのは、いわゆる「新自由主義」の政策とされます。福祉大国のデンマークでも、そのような制度が導入されています。ところがこれが大きな問題になってい...

■移民の自由とフェイクニュースを考える

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瀧川裕英編『もっと問いかける法哲学』法律文化社 浦山聖子さま、成原慧さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   2020 年。世界全体で、出生国以外の国で生活している人は、 2 億 8100 万人というデータがあるのですね。これは世界人口の 3.6% です。この数を少ないとみるか、多いとみるか。国際的な資本移動と比較すると、国際労働市場はまだまだ発達していない、という見方ができるでしょう。 米国のギャラップ社が発行している「潜在的ネット移民指数」があります。移民になりたいかどうか、という指数ですね。ギャラップ社には追加で、移民する場合に、「潜在的に支払ってもいい金額」を出してほしいです。コストがいくらなら移民しないのか、それが分かるといいと思いました。 現在、世界人権宣言や国際人権規約は、人権として、「出国する権利」を認めている。ところが「入国する権利」は保証していない。入国は、人権ではなく、各国政府の裁量に任されているのですね。「移民の権利」というのは、実質的に、半分の権利だということになります。 移民を自由化するために、参考になる事例があります。オーストラリアとニュージーランドのあいだで交わされた「トランス・タスマン旅行協定」です。互いに自由に移動して働いて構わないという、二国間協定です。このような協定を増やしていく方向が考えられますね。現在の国際投資協定と同じようなやり方です。 フェイク・ニュースを取り締まるべきか、という問題も、興味深いですね。フェイク・ニュースが社会の統治を危険にさらす場合、あるいは将来そのような危険が生じる可能性がある場合、取り締まるべきだ、ということでしょう。 またこの問題は、国家が規制するのか、同業者団体の自主規制に任せるのか、第三者機関によるファクトチェックを機能させるのか、国民にメディア教育を義務化して、フェイク・ニュースに対する耐性を高めるように促すのか、等々、いろいろな対処の仕方があります。どの方法が最も効果的かという問題と、どの方法が最もリベラルか、という問題があります。リベラルな対応とはなにか。フェイク・ニュースに即して論じることは、意義深いです。法哲学で、ぜひ論じてほしいです。 キャス・サンスティーンであれば、フェイクニュースを流してもよいけれども、流す人は、自分と...

■関係主義的リベラリズムとは何か

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  野崎亜紀子『〈つながり〉のリベラリズム』勁草書房   野崎亜紀子さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    長年にわたるご研究の成果ですね。刊行をお喜び申し上げます。  「関係」主義という観点からリベラリズムを考えるとき、個人の自己決定や自由意志が、どのような関係において尊重されるのか。あるいはまた、自分で自己決定することができない / 難しい人(胎児、子ども、障がい者など)が、できるだけ尊厳をもって生きるためには、どんな人間関係が必要で、それはいかにして確保されのるか。このようなことが問題になります。  私たちの人間関係を、リベラルな関係へと変革していく。ではリベラルな関係とは、どのようなものなのか。明解な指針を示すことは難しいようですね。  例えば、ある疾患に関する有益な情報を、ある患者会の内部で共有して、そのメンバー以外の患者には公開しなかったとしましょう。これは患者会という「特定の関係性」を重んじて、外部を重んじなかった、ということになります。このような関係性は、リベラリズムの観点から正当化されるのでしょうか (14) 。この問題は、リベラルの観点からみて、どのような関係性が望ましいか、という問題です。リベラルであれば、「患者会の外部の患者とよい関係を築け」ということになるでしょうか。   NIPT (新型出生前診断)について、関係主義的なリベラリズムは、どんな立場を採るでしょうか。 NIPT とは、「無侵襲的出生前遺伝学的検査、母体血細胞フリー胎児遺伝子検査、母体血胎児染色体検査、セルフリー DNA 検査などとも呼ばれる、妊婦から採血しその血液中の遺伝子を解析することにより、胎児の染色体や遺伝子を調べる非侵襲的検査」です( wiki より)。  妊娠したら、 NIPT を受検すべきかどうか。そしてその検査結果を受け入れて、しかるべき場合には、人工妊娠中絶をすべきかどうか。これは自己決定型のリベラリズムからすれば、「任意に受検し、任意に人工妊娠中絶せよ」という規範が正しいことになります。では関係主義的なリベラリズムは、どのように発想するでしょうか。明快な立場はないようですね。胎児の生命権を重んじるのか、胎児の利益的主体性を重んじるのか。  自己決定権を重んじる立場は、 NIPT...

■「聖書のみ」の立場は正しいのか

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アナス・ホルム『概説グルントヴィ 近代デンマークの礎を築いた「国父」、その生涯と思想』小池直人 / 坂口緑 / 佐藤裕紀 / 原田亜紀子訳、花伝社    坂口緑さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   19 世紀を生きたグルントヴィ (1783-1872) は、デンマークで「国父」と呼ばれるような重要な人物なのですね。しかも教育面で世界的な影響を与えたと。日本でも 1994 年に「日本グルントヴィ協会」が設立されました。本書はグルントヴィの概説書で、彼の人生と著作を紹介しています。  本書の紹介によれば、小国のデンマークは、 19 世紀に、対独戦でドイツに敗北し、独立国家としての危機を迎えます。そのような時期にグルントヴィは、国民の大多数を占める農民を、「デンマーク人」として覚醒させるための民衆教育を構想しました。  グルントヴィは、カリスマ的な魅力のある人で、同時代のヘルダー、ゲーテ、ヘーゲルなどと比較されたりします。興味深いのは、グルントヴィは、父がプロテスタント教会の牧師で、自身も一時期牧師になるのですが、ルター派のプロテスタンティズムを批判した点です。ルター派の「聖書のみ」という立場を批判するのですね。 グルントヴィは、長い探求の末に、エイレナイオス司教 ( 約 130-200) の作品の伝統に立ち返り、「新約聖書が書かれる以前に、キリスト教は信仰の営みがなされる教会のなかに生きた仕方で存在していたという結論に行きついた」というのですね (65) 。  イエス自身の言葉は、書き下されるはるか以前から繰り返されていたのだと。北欧神話もそうですが、口承伝達の伝統があり、書物以前に口承の言葉があった。イエスがその使徒たちに伝えたのは、そのような口承されてきた言葉だった。  ただ、グルントヴィは、この主張を記した小冊子『教会の応酬』で、神学教授のクラウセンを批判して、それで名誉棄損の罪で、以降は法的許可なしに何も出版できないことになってしまった。ただしその後、この罪は解除され、自由に出版できるようになります。そしてグルントヴィの考え方が認められて、デンマークの人々は、自身の教区を離れて、自由に礼拝できるようになる。そのような法律が 1855 年に制定されたのですね。

■リップマンは新自由主義の立役者

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山脇直司『分断された世界をつなぐ思想』北海道大学出版会 山脇直司さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   アメリカ発の公共哲学は、リップマンとデューイにさかのぼることができるのですね。とくにリップマンは、新自由主義の初期の立役者でもあり、関心をもちました。リップマンに関する研究は、もっとあってもいいと思います。  リップマンは、岩波文庫で読める著書、『世論』(上・下)で知られています。この本は 1922 年に刊行されました。ではその後、リップマンはどんな本を書いたのでしょうか。 リップマンは、 1928 年に『幻の公衆』を書きますが、この本が邦訳されたのは 2007 年なのですね。遅いですね。 1934 年に刊行された The Good Society は、翻訳がありません。 1955 年に刊行された『公共の哲学』は、 2014 年に邦訳されています。こちらもずいぶん遅いですね。  つまりリップマンは、 21 世紀になるまで、日本でほとんど紹介されていなかったのですね。これは岩波文庫の一冊になった著者としては、異例なほど、研究されてこなかったということでしょう。なぜでしょう。  おそらく 20 世紀の日本では、リベラリズム(新自由主義を含む)と公共哲学に対する関心が、アカデミズムにおいて、ほとんど湧かなかったということなのでしょう。しかしリップマンは、知性史の観点から、重要な人物であると改めて思いました。

■クロポトキンの新訳、決定版

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  ピーター・クロポトキン『相互扶助論 進化の一要因』小田透訳、論創社   小田透さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    長文の「訳者あとがき」を読みました。とても力強くて感銘を受けました。 「わたしたちは、自分自身を疑うだけでなく、わたしたちの創造的な潜勢力を信じてもよいはずである。なぜなら、相互扶助の感性も実践も、自然の贈与だからだ。」 (431)  相互扶助の実践は、創造的な潜勢力の発揮を必要とする、人間にとってすぐれた倫理なのですね。  このたびは、クロポトキンの『相互扶助論』 (1902) の新訳の刊行を、心よりお喜び申し上げます。  少し前に大杉栄の「初訳」の新版(新漢字・新仮名遣い版)が刊行されて、その時に私はこの本を読みましたが、この翻訳は補遺を訳していないなど、いろいろな不備があったのですね。その後、大沢正道が 1970 年に新たな訳を『クロポトキン I 』として出したのですが、これは絶版状態が続いていたと。  今回、クロポトキンの引用の誤りまで確認して翻訳された意義は、大きいと思います。  翻訳を通じて、小田さまが、クロポトキンに惹かれる理由が、エミール・ゾラの『パスカル博士』に登場するパスカルと似ているから、というのは興味をそそられました。この本、読んでみたいと思います。

■ケアの倫理と関係主義

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  加藤泰史編『問いとしての尊厳概念』法政大学出版局   後藤玲子さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    人間の尊厳を保証するために、ロールズやセンの思想はどんな貢献をしたのか。 カントにしたがって、ロールズは人間の尊厳が、他者の尊厳と比較できるものではなく、絶対的なものとして承認しなければならないと考えました。しかし実際に人々の尊厳を満たすためには、何らかの基準が必要であり、その基準に照らして、尊厳がどれだけ満たされたのかを、比較することができます。尊厳をケイパビリティの束として捉える場合も、同じように程度の問題が生じるでしょう。  しかしいずれにしても、キテイのようなケア倫理の思想家からすれば、こうしたリベラリズムの議論はすべて、個人の独立性と自律性を前提にした理論であり、想定としておかしい、というわけですね(品川哲彦論文)。  社会の最小限の単位は、個人ではなく関係であり、しかもケア関係こそが、基底的であると考えてみましょう。すると、どんな社会が望ましいか。人々の意見を集約する民主主義という発想は、それぞれの人間の意見を平等に扱うとしても、それは個人を前提にしているのだからおかしい、ということになりますね。  重度の障害をもった障害者もまた、社会を構成する一員であるとして、その障害者は、政治的な意見を自律的に形成することができないかもしれません。そのような場合、その障害者の意見を誰かが代弁すればよいと発想することも、やはり個人を前提とする点でおかしい、ということになるでしょうか。  関係のあり方に負担をかけないで、公平にケアの負担を担う、という発想は、関係主義的な発想です。しかしこの発想を政治的に正当化するためには、どうすればいいのでしょうか。自律しているように見える人でも、実際には自律していないのであり、社会の関係性なかで、依存して生きているにすぎない。そのような個人が集まった場合に、どんな制度が正当化されるのか。  私はこの問題は、各人になるべく自律に負担をかけないように、依存しても生きていけるように、政府に意思決定をゆだねるという発想になるのではないか、と思います。しかしこれでは、権威主義的な政府を正当化してしまいます。 権威主義を防ぐためには、何が必要なのか。行政組織が、...