投稿

2024の投稿を表示しています

■消費者団体が公平な市場競争を促す

イメージ
丸山千賀子『欧米の消費者団体 消費者政策のステイクホルダー』開成出版   丸山千賀子さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    最新の消費者団体の動向を、新しい調査と資料に基づいて整理されています。多くを学びました。  アメリカの消費者団体の「コンシューマー・レポート」は、最近 2022 年に、コネチカット州で、「個人情報保護法(コネチカット州データプライバシー法)」を、州議員と協力して成立させたのですね。興味深いです。消費者団体が法律の制定に貢献している。  またアメリカの連邦議会は、コンシューマー・レポートが賛同している「自動車の安全性改革」を盛り込んだ法律を成立させたのですね。飲酒運転を防ぐ技術の導入を、新車に義務づけた。これによって年間 9,000 人の命を救うことができるようになったのだと。  コンシューマー・レポートは、 150 以上のパートナーシップを結んでいる。パートナーシップとは何か。それは、商用、調査・報道、ライセンス、慈善団体、規制・調査の五種類に分けられる。例えば商用のパートナーシップで、コンシューマー・レポートは TrueCar 社と連携して、消費者に対して有用な情報を提供するようになった。消費者は、新車・中古車の価格、在庫状況、他の消費者が支払った価格などを知ることができるようになった。このようにしてコンシューマー・レポートは、フェアな価格競争を促しているのですね (18) 。  イギリスの DMU= デジタル市場ユニットという組織も、興味深いです。 DMU は、政府の「競争・市場庁」のなかに設立された組織で、グーグルやメタなどの巨大なプラットフォームに対して、サービス内容や個人データの利用方法、広告表示などに透明性を求めている。この組織の活動は、市場競争を適正なものへと促すことなのですね (52) 。  イギリスでは認定された消費者団体に対して、 2002 年以降、「スーパー・コンプレインツ」という、競争・市場庁に訴える権限を与えた、というのも興味深いです。  消費者団体は、政府や市場から独立した自発的結社であり、市民社会の組織ですが、それが政府や市場(企業)とどのように協力して、市場の公正かつ競争的な秩序を作っていくのか。この問題に、本書はさまざまな事例で迫っています。

■新自由主義と市民社会は両立するか デンマークの教育政策から

イメージ
  坂口緑『多文化化するデンマークの社会統合 生涯学習が果たす役割とその可能性』花伝社   坂口緑さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    二年前に提出された博士論文を、さらにブラッシュアップして、このようなすばらしい本にまとめられましたことを、心よりお喜び申し上げます。  コミュニタリアニズムの思想が、教育や移民対応の現場でどのような意味をもつのか。デンマークの事例を、インタビューを通して具体的に明らかにされたことは、大きな成果であります。本書は、市民派コミュニタリアニズムの言説を濃密に紡いでいると思います。  そもそもデンマークでは、 12 歳から 25 歳まで、学校を中退してそのまま労働市場に参入した人が、 1990 年に 25.4% に上昇したというのですね (99) 。政府はこれを問題視して対策を立てますが、しかしその後も、だいたい 20% 前後で推移している。およそ五人に一人は通常の教育制度から外れている。政府としては、 95% の人が中等教育を修了できるようにしたいのだけれども、それがうまくいかない。教育に失敗している。そこで「生涯学習」という理念が、教育政策の現実的な目標になってきたのですね。  教育問題を解決する際に、デンマークでは、ボランティアによるアソシエーション(自発的結社)に期待が寄せられました。デンマークでは、およそ三人に一人が何らかのアソシエーションに参加しています。国全体で、アソシエーションは約 10 万団体もある (170) 。その大半は、スポーツ団体ですけれども。アソシエーションは、「学校の次にデモクラシーを学ぶ場」であると認識されている、というのは興味深いです。  日本では、アソシエーションとしての各種 NPO 団体が、体育館や図書館の運営など、政府のサービスを請け負う場合があります。デンマークでもそのような仕組みがありますが、ではアソシエーションへの下請けは、労働の搾取にならないでしょうか。デンマークの人々にインタビューしてみると、どうもそのような意識はあまりないのですね。  政府がアソシエーションに業務を委託するのは、いわゆる「新自由主義」の政策とされます。福祉大国のデンマークでも、そのような制度が導入されています。ところがこれが大きな問題になっていない。デンマークの研究者たち

■移民の自由とフェイクニュースを考える

イメージ
瀧川裕英編『もっと問いかける法哲学』法律文化社 浦山聖子さま、成原慧さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   2020 年。世界全体で、出生国以外の国で生活している人は、 2 億 8100 万人というデータがあるのですね。これは世界人口の 3.6% です。この数を少ないとみるか、多いとみるか。国際的な資本移動と比較すると、国際労働市場はまだまだ発達していない、という見方ができるでしょう。 米国のギャラップ社が発行している「潜在的ネット移民指数」があります。移民になりたいかどうか、という指数ですね。ギャラップ社には追加で、移民する場合に、「潜在的に支払ってもいい金額」を出してほしいです。コストがいくらなら移民しないのか、それが分かるといいと思いました。 現在、世界人権宣言や国際人権規約は、人権として、「出国する権利」を認めている。ところが「入国する権利」は保証していない。入国は、人権ではなく、各国政府の裁量に任されているのですね。「移民の権利」というのは、実質的に、半分の権利だということになります。 移民を自由化するために、参考になる事例があります。オーストラリアとニュージーランドのあいだで交わされた「トランス・タスマン旅行協定」です。互いに自由に移動して働いて構わないという、二国間協定です。このような協定を増やしていく方向が考えられますね。現在の国際投資協定と同じようなやり方です。 フェイク・ニュースを取り締まるべきか、という問題も、興味深いですね。フェイク・ニュースが社会の統治を危険にさらす場合、あるいは将来そのような危険が生じる可能性がある場合、取り締まるべきだ、ということでしょう。 またこの問題は、国家が規制するのか、同業者団体の自主規制に任せるのか、第三者機関によるファクトチェックを機能させるのか、国民にメディア教育を義務化して、フェイク・ニュースに対する耐性を高めるように促すのか、等々、いろいろな対処の仕方があります。どの方法が最も効果的かという問題と、どの方法が最もリベラルか、という問題があります。リベラルな対応とはなにか。フェイク・ニュースに即して論じることは、意義深いです。法哲学で、ぜひ論じてほしいです。 キャス・サンスティーンであれば、フェイクニュースを流してもよいけれども、流す人は、自分と対立する

■関係主義的リベラリズムとは何か

イメージ
  野崎亜紀子『〈つながり〉のリベラリズム』勁草書房   野崎亜紀子さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    長年にわたるご研究の成果ですね。刊行をお喜び申し上げます。  「関係」主義という観点からリベラリズムを考えるとき、個人の自己決定や自由意志が、どのような関係において尊重されるのか。あるいはまた、自分で自己決定することができない / 難しい人(胎児、子ども、障がい者など)が、できるだけ尊厳をもって生きるためには、どんな人間関係が必要で、それはいかにして確保されのるか。このようなことが問題になります。  私たちの人間関係を、リベラルな関係へと変革していく。ではリベラルな関係とは、どのようなものなのか。明解な指針を示すことは難しいようですね。  例えば、ある疾患に関する有益な情報を、ある患者会の内部で共有して、そのメンバー以外の患者には公開しなかったとしましょう。これは患者会という「特定の関係性」を重んじて、外部を重んじなかった、ということになります。このような関係性は、リベラリズムの観点から正当化されるのでしょうか (14) 。この問題は、リベラルの観点からみて、どのような関係性が望ましいか、という問題です。リベラルであれば、「患者会の外部の患者とよい関係を築け」ということになるでしょうか。   NIPT (新型出生前診断)について、関係主義的なリベラリズムは、どんな立場を採るでしょうか。 NIPT とは、「無侵襲的出生前遺伝学的検査、母体血細胞フリー胎児遺伝子検査、母体血胎児染色体検査、セルフリー DNA 検査などとも呼ばれる、妊婦から採血しその血液中の遺伝子を解析することにより、胎児の染色体や遺伝子を調べる非侵襲的検査」です( wiki より)。  妊娠したら、 NIPT を受検すべきかどうか。そしてその検査結果を受け入れて、しかるべき場合には、人工妊娠中絶をすべきかどうか。これは自己決定型のリベラリズムからすれば、「任意に受検し、任意に人工妊娠中絶せよ」という規範が正しいことになります。では関係主義的なリベラリズムは、どのように発想するでしょうか。明快な立場はないようですね。胎児の生命権を重んじるのか、胎児の利益的主体性を重んじるのか。  自己決定権を重んじる立場は、 NIPT を受けない権利を認めます。

■「聖書のみ」の立場は正しいのか

イメージ
アナス・ホルム『概説グルントヴィ 近代デンマークの礎を築いた「国父」、その生涯と思想』小池直人 / 坂口緑 / 佐藤裕紀 / 原田亜紀子訳、花伝社    坂口緑さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   19 世紀を生きたグルントヴィ (1783-1872) は、デンマークで「国父」と呼ばれるような重要な人物なのですね。しかも教育面で世界的な影響を与えたと。日本でも 1994 年に「日本グルントヴィ協会」が設立されました。本書はグルントヴィの概説書で、彼の人生と著作を紹介しています。  本書の紹介によれば、小国のデンマークは、 19 世紀に、対独戦でドイツに敗北し、独立国家としての危機を迎えます。そのような時期にグルントヴィは、国民の大多数を占める農民を、「デンマーク人」として覚醒させるための民衆教育を構想しました。  グルントヴィは、カリスマ的な魅力のある人で、同時代のヘルダー、ゲーテ、ヘーゲルなどと比較されたりします。興味深いのは、グルントヴィは、父がプロテスタント教会の牧師で、自身も一時期牧師になるのですが、ルター派のプロテスタンティズムを批判した点です。ルター派の「聖書のみ」という立場を批判するのですね。 グルントヴィは、長い探求の末に、エイレナイオス司教 ( 約 130-200) の作品の伝統に立ち返り、「新約聖書が書かれる以前に、キリスト教は信仰の営みがなされる教会のなかに生きた仕方で存在していたという結論に行きついた」というのですね (65) 。  イエス自身の言葉は、書き下されるはるか以前から繰り返されていたのだと。北欧神話もそうですが、口承伝達の伝統があり、書物以前に口承の言葉があった。イエスがその使徒たちに伝えたのは、そのような口承されてきた言葉だった。  ただ、グルントヴィは、この主張を記した小冊子『教会の応酬』で、神学教授のクラウセンを批判して、それで名誉棄損の罪で、以降は法的許可なしに何も出版できないことになってしまった。ただしその後、この罪は解除され、自由に出版できるようになります。そしてグルントヴィの考え方が認められて、デンマークの人々は、自身の教区を離れて、自由に礼拝できるようになる。そのような法律が 1855 年に制定されたのですね。

■リップマンは新自由主義の立役者

イメージ
山脇直司『分断された世界をつなぐ思想』北海道大学出版会 山脇直司さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   アメリカ発の公共哲学は、リップマンとデューイにさかのぼることができるのですね。とくにリップマンは、新自由主義の初期の立役者でもあり、関心をもちました。リップマンに関する研究は、もっとあってもいいと思います。  リップマンは、岩波文庫で読める著書、『世論』(上・下)で知られています。この本は 1922 年に刊行されました。ではその後、リップマンはどんな本を書いたのでしょうか。 リップマンは、 1928 年に『幻の公衆』を書きますが、この本が邦訳されたのは 2007 年なのですね。遅いですね。 1934 年に刊行された The Good Society は、翻訳がありません。 1955 年に刊行された『公共の哲学』は、 2014 年に邦訳されています。こちらもずいぶん遅いですね。  つまりリップマンは、 21 世紀になるまで、日本でほとんど紹介されていなかったのですね。これは岩波文庫の一冊になった著者としては、異例なほど、研究されてこなかったということでしょう。なぜでしょう。  おそらく 20 世紀の日本では、リベラリズム(新自由主義を含む)と公共哲学に対する関心が、アカデミズムにおいて、ほとんど湧かなかったということなのでしょう。しかしリップマンは、知性史の観点から、重要な人物であると改めて思いました。

■クロポトキンの新訳、決定版

イメージ
  ピーター・クロポトキン『相互扶助論 進化の一要因』小田透訳、論創社   小田透さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    長文の「訳者あとがき」を読みました。とても力強くて感銘を受けました。 「わたしたちは、自分自身を疑うだけでなく、わたしたちの創造的な潜勢力を信じてもよいはずである。なぜなら、相互扶助の感性も実践も、自然の贈与だからだ。」 (431)  相互扶助の実践は、創造的な潜勢力の発揮を必要とする、人間にとってすぐれた倫理なのですね。  このたびは、クロポトキンの『相互扶助論』 (1902) の新訳の刊行を、心よりお喜び申し上げます。  少し前に大杉栄の「初訳」の新版(新漢字・新仮名遣い版)が刊行されて、その時に私はこの本を読みましたが、この翻訳は補遺を訳していないなど、いろいろな不備があったのですね。その後、大沢正道が 1970 年に新たな訳を『クロポトキン I 』として出したのですが、これは絶版状態が続いていたと。  今回、クロポトキンの引用の誤りまで確認して翻訳された意義は、大きいと思います。  翻訳を通じて、小田さまが、クロポトキンに惹かれる理由が、エミール・ゾラの『パスカル博士』に登場するパスカルと似ているから、というのは興味をそそられました。この本、読んでみたいと思います。

■ケアの倫理と関係主義

イメージ
  加藤泰史編『問いとしての尊厳概念』法政大学出版局   後藤玲子さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    人間の尊厳を保証するために、ロールズやセンの思想はどんな貢献をしたのか。 カントにしたがって、ロールズは人間の尊厳が、他者の尊厳と比較できるものではなく、絶対的なものとして承認しなければならないと考えました。しかし実際に人々の尊厳を満たすためには、何らかの基準が必要であり、その基準に照らして、尊厳がどれだけ満たされたのかを、比較することができます。尊厳をケイパビリティの束として捉える場合も、同じように程度の問題が生じるでしょう。  しかしいずれにしても、キテイのようなケア倫理の思想家からすれば、こうしたリベラリズムの議論はすべて、個人の独立性と自律性を前提にした理論であり、想定としておかしい、というわけですね(品川哲彦論文)。  社会の最小限の単位は、個人ではなく関係であり、しかもケア関係こそが、基底的であると考えてみましょう。すると、どんな社会が望ましいか。人々の意見を集約する民主主義という発想は、それぞれの人間の意見を平等に扱うとしても、それは個人を前提にしているのだからおかしい、ということになりますね。  重度の障害をもった障害者もまた、社会を構成する一員であるとして、その障害者は、政治的な意見を自律的に形成することができないかもしれません。そのような場合、その障害者の意見を誰かが代弁すればよいと発想することも、やはり個人を前提とする点でおかしい、ということになるでしょうか。  関係のあり方に負担をかけないで、公平にケアの負担を担う、という発想は、関係主義的な発想です。しかしこの発想を政治的に正当化するためには、どうすればいいのでしょうか。自律しているように見える人でも、実際には自律していないのであり、社会の関係性なかで、依存して生きているにすぎない。そのような個人が集まった場合に、どんな制度が正当化されるのか。  私はこの問題は、各人になるべく自律に負担をかけないように、依存しても生きていけるように、政府に意思決定をゆだねるという発想になるのではないか、と思います。しかしこれでは、権威主義的な政府を正当化してしまいます。 権威主義を防ぐためには、何が必要なのか。行政組織が、権威主義的に介入するのではな

■うつ病から逃れるために

イメージ
  ヨハン・ハリ『うつ病 隠された事実 逃れるための本当の方法』山本規雄訳、作品社   作品社編集部さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   ヨハン・ハリは、英国生まれのジャーナリストで、これまで国際人権団体のアムネスティの「ジャーナリスト・オブ・ザ・イヤー」に、二度も選ばれました。  前著の『麻薬と人間  100 年の物語』は、とても興味深く読みました。この本はビリー・ホリデイの人生に迫る力作であり、映画化されました。ビリー・ホリデイを演じた主演女優は、ゴールデン・グローブ賞(ドラマ部門)の主演女優賞を受賞されました。  そして本書は、うつ病に関する本です。薬が効くのはほんのわずかな人たちで、原因は社会的絆の喪失にあるのだから、その絆をもう一度結び直すことがすぐれた処方になる、というのですね。  うつ病になる原因は、意味ある仕事との断絶(所得が低いほど、うつ病になりやすいのですね)、他の人との絆の断絶、意味ある価値観との断絶(物質的な欲求や地位への欲求が高い人ほど、うつ病になりやすい)、子ども時代のトラウマ、尊敬される地位との絆の断絶、自然との絆の断絶、希望に満ちた未来 / 安定した未来との絆の段節、という七つにまとめられています。  これらの原因を解決するためには、再び、絆を取り戻す、自然を取り戻す、などの実践が重要なのですね。この本には、さまざまな実例が紹介されていて、どうやってそのような絆を回復していくのか、実感をもって理解できます。  欧米人は個人主義なのでうつ病になりやすい、ということですが、ではアジア諸国ではどうなのでしょうか。絆を取り戻すために、個人と社会はどのように対応すべきなのか。考えるキッカケになりました。

■「勤勉主義」と「寝そべり族」のあいだ

イメージ
  石井知章編『ポストコロナにおける中国の労働社会』日本経済評論社   石井知章さま、執筆者の皆様、ご恵存賜り、ありがとうございました。   及川淳子「労働をめぐる社会意識の変化と習近平政権」を興味深く拝読しました。    中国では、大規模な社会統計やアンケート調査に制約があるため、いま中国人がどんな社会意識をもっているのかについて、なかなか知ることができないのですね。 それでも「流行語」を読み解くことで、中国社会の最近の傾向を分析できる。流行語のランキングがあるので、それを頼りに分析できるというのですね。  中国で「 996 」というのは、朝の九時から夜の九時まで、月曜日から土曜日までの六日間働く、という意味です。  「 007 」というのは、零時から零時まで、七日間働く、つまりすべての時間を労働に費やす、という意味です。これは不可能ですけれども、 996 よりも働いている人がいる、ということですね。  「内巻 involution 」という言葉は、私も聞いたことがありましたが、頑張れば頑張るほど、競争がより激化してしまうという、そういう社会状況を表しているのですね。これに対する自己防衛のあり方が、「躺平(とうへい)」と呼ばれるのですね。必死に頑張ることは避けたいけれども、寝そべり族になるのでもない。そこで 45 度の中間を維持したい、というわけですね。  しかし習近平は、「勤勉主義」という経済倫理を掲げています。これは中国では、憲法で定められているのですね。憲法 24 条は、 2018 年に新たに書き換えられました。そこでは「社会主義の核心的価値観」として、   (1) 国家の建設目標としての富強、民主、文明、和諧。 (2) 社会の構築理念としての自由、平等、公正、法治。 (3) 国民の道徳規範としての愛国、敬業、誠信、友善。   これらの価値が掲げられたのですね。ここで「敬業」というのが、日本語の勤勉に当たる言葉です。一生懸命に打ち込む、という意味です。これは社会主義というよりも、道徳国家の思想ですね。  日本はこのような道徳を憲法で明確にして強制することはありませんが、日本の経済成長を支えた倫理も、同じようなものだったのでしょう。日本と中国の経済倫理の違いについて、分析する価値がある

■派遣労働者は自由か

イメージ
  大槻奈巳編『派遣労働は自由な働き方なのか』青弓社   大槻奈巳さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   この本のタイトルがいいですね。 2017 年の厚生労働省の調査では、女性の大学等卒業者のうち、はじめて就いた職が有期・無期の派遣労働者の割合は、 15-19% でした。これに対して、男性の大学等卒業者の場合、 33-42% になるのですね。大きな違いです。 派遣労働者は、残業が少ないという特徴があります。 また派遣労働者の昇給については、男女の差はあまりないというのですね。 しかし、有期雇用の派遣労働者には、通勤手当が支払われていない可能性がある、というのは深刻です。 (139) では、派遣で働くことは、自由なのでしょうか。「いまの働き方に満足ですか」という質問に対して、「そう思う+ややそう思う」は 40% です。 また、正社員を目指したいか、という質問に対して、「そう思う+ややそう思う」は、男女ともに、約 60% です。 いまの働き方に満足せずに、正社員を目指している人たちが、実際に正社員になることができれば、派遣社員の働き方は、うまく機能していることになります。 派遣先の会社に対する不満については、男性と女性に大きな差があります。男性の派遣社員は、「定時に帰らせてほしい」とか「年次休暇を取りやすくしてほしい」といいます。しかし女性の派遣社員は、こうした問題に、それほど要求度が高くないですね。この結果は、意外でした。

■被爆者の体験を次世代に伝えていく責任

イメージ
  國部克彦 / 後藤玲子編『責任という倫理』ミネルヴァ書房   後藤玲子さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    広島と長崎での原爆体験は、終戦直後から、厳しい情報統制のなかで消去されてきたのですね。被爆者の損害も、それに対する責任の主体も明らかにされないまま、すなわち、原爆投下の責任も国家の戦争責任も問われないまま、 10 年が経過したと。  被爆者は、死者に対する罪と責任の感覚をもちます。また被爆者は、恥の感覚をもつことを余儀なくされます。この罪の感覚、責任の感覚、恥の感覚は、本人の個人的で内面的な問題とされ、偶発的な私事であるとして葬られてしまった。被爆者は、原爆症、差別、貧困、孤絶、罪の意識、不安、心の傷、死の恐怖、子供の将来に対する不安など、さまざま意識をもちます。しかしそのような意識を、なぜ一身に担わなければならないのか。賠償とその請求の宛先を確定することによって、その苦しみを少し解除することができるでしょう。  責任を適切に帰責する。そのような責任の倫理は、重要です。被爆者の体験を想起して、記憶して、次世代に伝えていくことは、私たちに課せられた責任です。私たちはこのような責任を担うことで、平和な社会を築くことに貢献できます。

■ローカル・コスモポリタニズムという立場

イメージ
    有賀誠 / 田上孝一 / 松本雅和編『普遍主義の可能性 / 不可能性』法政大学出版局 上原賢司「正義の探求にあたってコスモポリタニズムはもう不要なのか ? 」   上原賢司さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    グローバル正義論には、これまで三つの波があったのですね。 第一の波は、ロールズ『正義論』とウォルツァー『正しい戦争と不正な戦争』。いずれも 1970 年代の著作で、これに対する批判的な応答によって、当時の議論が盛り上がりました。 第二の波は、 1990 年代から 2000 年代にかけて。 そして第三の波は、 2010 年代以降の現代になるのですね。具体的に、グローバル正義論では、貿易問題、気候正義、移民倫理学、人権、領有権、などが議論されています。  私が拙著『帝国の条件』を世に問うたのは、 2008 年でした。この本は、 2001 年の 9.11 テロ事件を受けて、グローバリズムと反グローバリズムの思想と現実を考察したものでありました。これは、グローバル正義論の第二波に当たるのですね。  興味深いのは、第二波の段階では、「コスモポリタニズム」と「反コスモポリタニズム」という思想的対立が論じられたのですが、第三の波になると、すでにコスモポリタニズムが前提とされていて、もはやこの言葉を用いる必要がないくらいなのですね。  現在の議論では、「グローバルな正義」というのは、コスモポリタンな考え方をもっていなかったり、あるいは、そのような生き方をしていない人に対しても、重要な意義をもっている。ローカルな生き方をしていても、移民を受け入れるべきだと思っている人はいますし、また移民に対してどう接するべきかについて、一定のグローバルな正義感覚をもっていることが多い。つまりコスモポリタンでなくても、グローバル正義に合意できるという、そういう状況が生まれている。確かに、これは事実だと思います。  こうなると、コスモポリタニズムの理念は、グローバル正義とは別のところで、その役割を発揮しないといけないですね。例えば、サステナブル都市の担い手になるとか、災害時に諸外国を救済するとか、そのような実践に即して論じられるテーマかもしれません。そのようなコスモポリタンは、必ずしもローカリズムに反対せず、むしろローカルな社

■子供の教育にもっと投資を

イメージ
    古市太郎『経済社会学から考える現代の地域協働』八千代出版   古市太郎さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   日本の家族形態は、ずいぶん変化しましたね。 1980年の段階では、夫婦と子供からなる世帯が42 . 1%で一番多かった。 ところが2020年には、これが25%に減る。代わって、単独世帯が38%で一番多くなったのですね。 また1989年の段階で、共働き世帯の割合は42 . 3%でしたが、2019年には66.2%になったのですね。大きな社会的変化です。 興味深いのは、「外食率」と「食の外部化率」です。 1990年以降、外食率は、少し減っています。これに対して食の外部化率は、少し増えている。しかしいずれも、それぞれ 35-40%,40-45% の範囲内なので、あまり変化していませんね。これは私たちの食生活が、1990年以降、あまり変わっていないことを示しているでしょう。変化が大きかったのは、1975年から1990年にかけてでした。 大学等進学率は、全世帯でみると、大学と専修学校を合わせて73%ですが、生活保護世帯では、これが35.3%なのですね。2017年のデータです。 (47) ひとり親家庭の場合、大学等進学率は、上昇しています。2003年には43.2%でしたが、2015年(ごろ)には58.5%に上がっている。児童養護施設の子どもの大学等進学率も、少し上昇傾向がみられます。 ひとり親家庭、生活保護世帯、児童養護施設、この三つの家庭で、子どもたちが教育において不利な立場におかれないためには、何をすべきなのか。子供の貧困率を下げる、子どもの教育に投資する。そのような政策がもっと必要だと、改めて思いました。

■セントラル・パークの思想は自生化主義?

イメージ
    小川(西秋)葉子 / 太田邦史編『生命デザイン学入門』岩波ジュニア新書   小川葉子さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    ニューヨーク・マンハッタンのセントラル・パークが、どのようなコンセプトでつくられたのかが分かりました。  ヨーロッパで「ガーデン」や「スクエア」とは、貴族制とともに発展したのですね。ある階級に属した人でなければ、利用できなかったのですね。しかしニューヨークでは「公衆衛生学」と「進化論」と「オープンスペース運動」が合体して、セントラルパークが建設された。これは公共的な運動だったのですね。 この公共運動は、都市に「肺」と「換気装置」を作る、という理念だったのですね。植物学や生物に詳しい知識人たちが、当時の公共性の言論をリードした、というのも興味深いです。 背景にあるのは、ユートピア的社会主義と、設計主義的ではない「自然なデザイン」の探求です。「自然の地勢を活かす」ということですね。あるいは「左右対称にしない」というのもコンセプトの一つです。 それから「超絶主義」。文明社会というのは腐敗・退廃している。だから超絶主義の考え方が必要。文明社会とは異なる「野生や天然の景観」を礼賛する思想が必要だ、と考えられたのですね。これはエマーソンやソローの考え方ですね。  ニューヨークのセントラル・パークの建設運動は、私が「自生化主義」と呼ぶ考え方と似ていると思いました。

■リベラルな平等主義を擁護する

イメージ
    ポール・ケリー『リベラリズム リベラルな平等主義を擁護して』佐藤正志 / 山岡龍一 / 隠岐理貴 / 石川涼子 / 田中将人 / 森達也訳、新評論   田中将人さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    本書は、リベラリズムに対する批判を一通り紹介しています。そしてリベラルな平等主義の観点から、それぞれの批判に応答しています。しかしその応答は、それぞれ短いですから、説得力があるところまで展開されていません。全体的な印象としては、いろいろな批判があって、リベラリズムはなかなか大変だ、という感じです。  とはいっても、いろいろな批判があるというのは、それぞれの批判者たちの思想的立場も、それほど強いものではない、ということでしょう。批判者たちの批判はどれも、体系的な思想性を備えていないですね。おそらく自分の立場を擁護する段になると、弱いだろうと推測されます。   85 頁以下で、バリーによるロールズの原初状態に対する批判が紹介されています。また、スキャンロンの説も紹介されています。もしこのバリーの考え方が正当であるとすれば、リベラルな平等主義は、基礎が危うくなると思いました。著者のケリーは、社会契約論というものが、リベラルな平等主義の基礎を提供すると考えていますが、しかしバリーのような仕方で社会契約論を擁護すれば、平等主義が受け入れることのできない社会契約でも、正義にかなっていることになるでしょう。  リベラルな平等主義は、リベラリズムの一つのタイプです。しかし、リベラリズムを代表するタイプというわけではありません。私の考えでは、リベラルな平等主義の思想的問題点は、積極的自由の概念を、「道徳律にしたがって行動する」、つまり自己統治するという意味で理解していることです (104) 。 自分の情念や欲望を制御できる、という意味での積極的自由を掲げるだけでは、私たちの社会がどのような原理で繁栄するのかについて、うまく語れないでしょう。積極的自由の概念を、自己統治の意味で捉える発想そのものに問題があるのではないか。そのようなことを考えました。

■見田宗介は消費社会に対する見解を変えた

イメージ
    山本理奈「現代社会論の課題」『思想』 2023 年 8 月号   山本理奈さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    雑誌『思想』の本号の特集は、「見田宗介 / 真木悠介」です。 見田先生は、 1937 年生まれ。 2022 年 4 月 1 日に逝去されました。改めて、心よりご冥福をお祈りいたします。  見田先生は『現代社会の理論』(岩波新書)で消費社会論を展開したのですが、その後、この本の増補版で、考え方を改めたのですね。 初版では、「自由な市場システムをとおしてであっても、自然収奪的でなく、他社会収奪的ではない仕方で、情報化 / 消費社会化を永続することは可能なはずである」、と見田先生は書きました。  しかしのちの増補版では、そのような可能性に「人間は永久に依存しつづけることはできないだろう」として、 21 世紀の課題は、「〈自由な社会〉という理念を手放すことなしに、現在あるような形の「成長」依存的な経済構造 = 社会構造 = 精神構造からの解放の道を見出すということ」だというのですね。  最近、「脱成長」ということが語られています。しかし脱成長というのは、 GDP に代えて、 HDI (人間開発指標)を用いて社会の繁栄を考えようという発想を、否定しないですね。私たちは、自然収奪的ではなく、他社会収奪的ではない仕方で、 HDI を考えることができるでしょうか。これがいま、見田先生の問題関心を引き継ぐうえで、重要な論点であると思いました。

■黒川創さんの那須耕介論

イメージ
  瀧口夕美 / 黒川創『生きる場所をどうつくるか』編集グループ SURE   那須美栄子さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   2024 年、 SURE の最新刊は、三つの討論と一つのインタビューからなる本です。アナキズムという言葉がキーワードになっています。自分たちにとって居心地のいい場所を作るには、どうすればいいのか。それぞれ語り手たちの活動と思想家への参照によって、熱く語られています。 第三章「場所に根ざしたアナキズムを掘り起こす」は、黒川さんがかなりの紙幅を割いて、那須耕介さんについて語っています。アナキズムとの関係はほとんどないですけれども、黒川さんの語りは、那須耕介さんという人間の本質を、さまざまな角度から深くえぐり出した、たぐいまれな人間論になっています。  那須さんは、大学生のときから SURE に参加していました。黒川さんとは、長いお付き合いだったのでしょう。黒川さんは、那須さんのエピソードをいろいろ語っています。  那須さんは、北沢恒彦という人物に惹かれていました。北沢さんの『隠された地図』という本を SURE で編集して出したときに、那須さんはとてもいい本だと言って、私に恵存してくれました。この本については、私は以前、ブログで感想を書いたこともありました。けれどもなぜ、那須さんがこの本とこの著者にこだわりをもったのかについては、今でも分かりません。何か見えない連関があるのでしょう。黒川さんは、次のようなエピソードを紹介しています。  「 [ 北沢 ] 恒彦は中小企業診断士として、京都の町を歩いていた。那須さんは、こうした恒彦が残した膨大な「商業診断報告書」についての解説をいずれやりたいと考えていた。だから、基本的な資料も自分の研究室に預かってくれていた。/那須さんがなくなるちょっと前、京都工業繊維大学の美術工芸資料館が、これらの北沢恒彦の資料を引き受けてくれることになった。那須はそれらの運送まで手伝ってくれた。彼の運転で、研究室からそこに資料を動かした。そうした彼の行動の取り方は、大学教授という職業の常軌から、はみ出すところがあったと思う。」 (102)  この北沢さんの資料は、いずれ整理されて、小さな展示が行われるだろう、ということですが、それだけの価値ある資料を北沢さんが作ったのですね。そし

■相国寺に寄宿した信長

イメージ
    中井裕子『室町・戦国時代の相国寺領荘園』相国寺教化活動委員会   中井裕子さま、相国寺教化活動委員会のみなさま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   室町時代に、相国寺領の荘園が全国的に広がっていく、その広がりと分布の特徴が、詳しく分析されています。  興味深いのは、織田信長が京都に入って政権をとる際に、一時期、相国寺で暮らしていたことです。   1569-1573 年のあいだは、信長は妙覚寺で暮らしていた。このころの妙覚寺は、二条室町付近にあったのですね。 その後、 1574 年の三月から翌年の七月まで、信長は相国寺で暮らしたのですね。約一年半ですね。  信長が相国寺に寄宿することで、相国寺にはおそらく、大勢の兵士たちが暮らすようになったでしょう。それで僧侶たちは追い出されたでしょう。お堂を「厩(うまや、馬小屋)」にしたり、部屋を取り壊したりしたことが、推測されるというのですね。  信長が相国寺を選んだのは、その前年に将軍の足利義昭が亡くなり、それで将軍に代わって朝廷を守るために、相国寺の場所が適していた、というのですね。

■女性管理職を増やすには

イメージ
  駒川智子 / 金井郁編『キャリアに活かす雇用関係論』   大槻奈巳さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   国立女性教育会館が 2015-2019 年に実施した調査の結果が興味深いです。  昇進意欲は、入社一年目で、男性 95.6% 、女性 67.8% なのですね。ところが入社 5 年目になると、男性 84.3% 、女性 44.4% になってしまう。女性のほうが、昇進意欲を大きく低下させています。 (65)  では女性は、どんなときに管理職への昇進意欲をもつのか。それは、「専門能力を高めたい」場合、また「仕事満足度」が高い場合なのですね。これに対して「主に女性が担当する仕事についている」と答える人は、昇進意欲が低いのですね。  別のデータで、 2020 年の「管理的職業従事者の割合と女性比率の国際比較」では、おそらく何をもって管理的職業と呼ぶのか、という定義の違いが大きいと思うのですが、日本では、管理的職業従事者に占める女性の割合が 13.3% で、これは韓国の 15.7% よりも低いです。欧米諸国との比較については、やはりカテゴリーが違うような気がします。  では管理職の人は、一般社員に比べて、どけだけ多く働いているのでしょう。日本の場合、一般社員も多く働いているので、一か月あたりの労働時間の差は、 13 時間弱なのですね。これはつまり、管理職の人は、一日あたり、 30 分から 40 分多く働いている、という計算になるでしょうか。  いま日本の企業で、女性を活用するために、何をすればいいのか。本書の分析から、いろいろ見えてきました。とくに、管理職の労働時間をもっと減らして、その職務内容を明確にして、女性が管理職につきたいという昇進意欲を高めていくことが重要なのですね。そのようにしてはじめて、女性の労働供給を増やすことができるのだと。

■労働という言葉の意味はドイツ語と英語で異なる

イメージ
    星野彰男『アダム・スミスの動態理論』関東学院大学出版会   星野彰男さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    「労働」という言葉は、英語で labour 、ドイツ語で Arbeit になりますが、英語とドイツ語で、意味が少し異なるのですね。 Labour は、労働力という意味を含みますが、 Arbeit はそうではないのだと。  マルクスがスミスを批判したときに、どうもマルクスはこの意味の違いに気づいていなかった。スミスの場合、 labour は、労働する主体の側の活動力、という意味になる。ところがマルクスの場合、 Arbeit は、活動力という意味は弱い。むしろ労作、つまり労働によって対象化されたもの、という意味になる。英語で work と言えば、このような対象化されたものという意味を持っているけれども、 labour の場合は、このようなニュアンスがないのですね。 この意味の違いは重要ですね。マルクスのスミス批判は、 labour と Arbeit の意味の違いを、マルクスがしっかり把握していなかったことに基づくというのは興味深いです。 例えば、スミスは、「労働の価値」という言葉を使いますが、マルクスは「価値という言葉は余計であり、無意味である」と批判します。しかし Arbeit には「労働の(対象化された)価値」という意味がもともと備わっているけれども、 labour には備わっていない、ということですね。  

■ウェーバーのいう「形式合理的な経済行為」とは

イメージ
    W. シュルフター『官僚制的支配の諸相 マルクスとヴェーバーの先進産業社会解釈とその批判的論議』シュルフター著作集 2 、佐野誠 / 林隆也訳、風行社   佐野誠さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   本書は、ウェーバー研究者のシュルフターの著作集、その第二巻です。全体で全六巻の翻訳企画のうち、他の巻はすでに刊行されていたのですが、この第二巻が最後に、最近になって刊行されたということですね。  私は以前に、この著作集の第四巻と第六巻を読みましたが、とくに第四巻の『信念倫理と責任倫理』は、すぐれた概念分析であると思いました。私は拙著『社会科学の人間学』で、この本の分析をさらに乗り越える概念分析を提示するという、野心的な試みをしたのでした。  シュルフターはとてもすぐれた研究者であると思うのですが、この第二巻で扱っている官僚制の問題は、そもそもウェーバーの官僚制論に限界があるような気がします。  訳者解説で解説されているように、かつてマルクーゼはウェーバーの官僚制論を批判して、独自の思想を展開したのですが、マルクーゼのウェーバー理解は間違っていた。これに対してハーバーマスのウェーバー理解は正しくて、ハーバーマスは、ウェーバーを内在的に乗り越えた、ということですね。これは正しい学説理解だと思います。  しかしそれでも、マルクーゼの独創的な思想の価値が失われるわけではありません。私たちは現代の官僚制を超えて、どんなシステムを築くべきなのか。この問題について、ウェーバーはあまりヒントを与えていないですね。むしろマルクーゼのほうが構想力をもっている。 私はウェーバーの思想を、新保守主義の観点から解釈すべきである、ということを主張していますが、これは官僚制をある方向に変容させようとするものです。  本書から、私はとくに、ウェーバーの「形式合理的な経済行為」の概念について学びました。シュルフターによれば、この概念には、一種の内在的制約があるのですね。 (325)  労働者が、経営手段を所有して経営管理するような組織は、マルクス主義の観点からみて一つの理想であり、資本主義を乗り越えるための一段階とみなしうるのですが、ウェーバーはこれを、形式合理的な経済行為と矛盾するものだ、と考えたのですね。形式合理的な経済行為は、労働者