■ハイエク的なロールズ批判を展開する

 




 

山岡龍一/大澤津編『現実と向き合う政治理論』放送大学大学院教材

 

山岡龍一さま、大澤津さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

放送大学の大学院生向けの教材です。最新の政治哲学・政治理論が紹介されており、勉強になりました。

 ロールズに対するガウスの批判が紹介されています。(本書第15章「政治理論の展望」)

 ガウスの議論(の一部)と、これを紹介するヴァリアの議論は、ともにThe Review of Austrian Economicsに掲載された論文であるというのは興味深いです。

 私たちは、理性的に考えて、なにか共通の合意できる道徳的立場に到達するのかといえば、それは無理だろうというのがガウスの議論です。これは正しいと思います。理性的に考えれば、リベラリズムを正統化できるのかというと、そういうわけではない。ロールズは、独自のリベラリズム理論を提示しましたが、そのリベラルな原理が実際に正統化しうる文脈は、「重なる合意」という、無定形の範囲をもつ合意に依拠します。その範囲は、いつも当てにできるわけではありません。

 私たちは、いわゆる理性ではなく、ある種の進化論的な理性でもって、ある道徳的立場を共有することができます。その道徳的立場は、私たちを全体的に、繁栄に導くものであります。これはガウスがハイエクから学んだ発想なのですね。

 では私たちは、ハイエク的な進化論的方法でもってリベラリズムを正統化するとき、たんに進化するからという理由で支持するのかどうか。正統化にはもっと市民宗教的なモメントがあるのではないか、というのがヴァリアの発想なのですね。ただしここで市民宗教というのは、リベラリズムにコミットする理由を、リベラリズムの外部から説明する観測点であり、それ自体としてリベラリズムを実践的に勧めるものではないというのですね。しかしそうであるとすれば、市民宗教は、進化論的な観測点でもよいのではないかと思いました。

 いずれにせよ、どんな道徳がリベラルな社会を可能にしているのか、どんな道徳が社会を分断せずに、人々の紐帯を与えているのか、という問題は重要です。例えば、外国人労働者を受け入れるとして、その労働者を国内の他の労働者と公平に扱うのか、それとも賃金などにおいて、ある程度差別的に処遇するのか、という問題に直面したとき、リベラルな道徳がいったいどんなものであるのかは争われます。ただ争われるとしても、その背後には、リベラルな社会を成り立たせるメタ道徳があるのではないか、と考えられます。そのメタ道徳がどのようなものとして記述しうるのか。これは哲学的に探究すべき課題であるでしょう。

 リベラルな立場は、外国人労働者をある面で公平に扱い、ある面で差別して扱うと思うのですが、しかしそれでも、社会のダイナミックな動態のなかで、道徳的な立場を少しずつ変更し、社会の紐帯を保ちながら、最適な道徳のパッケージを探るでしょう。その回答を探るための視点にコミットメントすることが、リベラルな社会のための宗教として必要ということになるでしょうか。ただしここで宗教とは、ロールズのいう包括的教説ではなく、ふさわしい道徳を正しく導くための視点です。

 そのようなことを考えてみました。

 


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