■現代人のための教養書、決定版
大澤真幸『社会学史』講談社現代新書
大澤真幸さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。
痛快で面白いです!
話しかけるように語られていて、どんどん読み進められます。しかも社会学史、一般には社会思想史と呼ばれる内容を網羅して、「現代の教養」というべき知識を、この一冊で一気に学ぶことができます。
現代の教養は、アリストテレスにはじまってルーマンにいたる、というわけですね。これは正しいと思います。分厚いですが、厚さはまったく問題ではありません。現代の日本人にとって、第一の必読書であるようにも思いました。
かつての必読書といえば、大塚久雄の『マルクスとウェーバー』でした。本書は、これに代わる新しい古典になるだろうと思います。(ちなみに富永健一著『現代の社会科学者』(講談社学術文庫)も、とてもいいです。)いまの大学生に一冊を勧めるとすれば、私は迷わずこの本を挙げるでしょう。「本物の教養は頭に染み込む」という、本書の帯のコピーもとても的得ています。
ウェーバーの『プロ倫』について、本書の論述を受けて、考えてみたいと思います。
カルヴァン派の二重予定説では、信者たちは、すでに自分が神のもとに行くか、それともそうではないか、決まっていると告げられるわけですが、たんに告げられるだけでは、神に救われるために努力することがなくなってしまいますね。現実には、頑張れば救われる、ただし、頑張っただけでは本当に救われるかどうかわからないし、ちょっと手を抜いた場合にどうなるのかは分からない、ということなのでしょう。
これは大学受験生のような状況ですね。努力しているのだけれども、本当に合格するのかどうか、不安になる。そのときに合格するという「兆候」が見えればいいのだけれども、その兆候は、「合格することを自己確信して、まい進する」という方法でしか得られないわけです。
この場合、神の存在は、どのように機能しているのか。ノージックが用いる「ニューカムのパラドックス」では、神は、ゲームのプレーヤーがAを選択するだろうと予測するときにAの箱に10億円を入れる。反対に神は、ゲームのプレーヤーがBを選択するだろうと予測するときにBの箱に何も入れない。このように神は個人の行為を予測して、その行為が帰結する結果を変更できる、というのですね。しかしこれは「二重予定説」の決定論とは異なります。神はあらかじめ何も決めていない、ということになりますから。
しかし神は、人間の行為を「あらかじめ予想していて、その予想は外れない」というわけですね。これはつまり、神は、個々の人間が、ある目的に向けて努力する人間であるのかどうか、すでに知っている、ということになります。ニューカムのパラドックスを使って解釈すると、そういうことになる。ここから得られる教訓とは、人間が神を受け入れて行為する存在であるという、言い換えれば、人間が神を存在たらしめているという、そういう社会状況が生まれているということですね。
このような神を想定することは、非合理的なわけですが、しかしこのような非合理性を受け入れた人たちが、世界を徹底的に合理化していったという点に、パラドックスがある。人間はなぜ生活全般を合理化しようと思ったのか。その動機や動力源は非合理的なものであります。しかし実際に、カルヴァン派の人たちは、神の存在を自分たちが支えていたとは思っていなかったでしょうし、神はやはり、超越的な存在として想定されていたでしょう。いずれにせよ、神に対するパラドキシカルな感情と、それから救済されたいという願望があって、それらが合理化の行為を支えているというのは、とても興味深い事柄です。