■意のままに選択できるとき、人は最高度に自由なのか



 

稲垣良典『トマス・アクィナス『神学大全』』講談社学術文庫

 

稲垣良典さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 以前、講談社メチエから刊行された本の文庫化ですね。心よりお喜び申し上げます。

 1985年の秋に、日本基督教学会で、稲垣先生が講演したときのエピソードです。

学会のある重鎮教授は、次のように語りました。「稲垣さん、カトリックの《信仰》理解が今日の講演通りのものであったとしたら、僕たちはなぜ宗教改革のようなことをやったのでしょうね」と。

 その時の稲垣様の応答は、「本当に、どうしておやりになったのでしょうね」と口籠もるほかなかった、というのですね。文庫版の「あとがき」のこのエピソードは、象徴的であるように思いました。

 自由とは何か。意のままに選択できるときに、人間は最高度に自由なのか。それとも、もはや自分の意志が誤った選択をしないほど確実に「自分の究極目的」へと秩序づけられているときに、最高度に自由であるといえるのか。トマス・アクィナスは、後者こそが自由であると考えるのですね。

 このような自由にいたるためには、人間の本性というものが理解可能であるという前提がなければなりません。人間のうちには、自分を超え出ようとする無限の運動がある。そういう自己超越へのダイナミズムがある。たとえ自分の究極目的が分からなくても、この能力こそ、自由の本質であると理解することができます。

 しかしここには「究極的・終局的なところに見いだされる目的に従うこと」と、「たえず自己を超越しようとする(その意味で究極目的を想定しない)こと」の違いがあります。どこまで超越しても、超越の方向性は終局的には「神」そのものであるから、これらは一致する、というのがトマスの考え方なのかもしれません。

しかしその場合でも、個々の人間が分有すべき「神の目的」とは、有限の目的にならざるを得ないでしょうから、その有限な目的はたえず超越の対象になるのではないか、と思いました。


このブログの人気の投稿

■「天」と「神」の違いについて

■自殺願望が生きる願望に反転する

■ウェーバーvs.ラッファール 「プロ倫」をめぐる当時の論争