■三島由紀夫文学における虚無と余剰
大澤真幸『三島由紀夫 ふたつの謎』集英社新書
大澤真幸さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。
三島由紀夫の文学が、最終的に到達したのは、どのような境地だったのか。それは『豊饒の海』における結末であり、「虚無」であったというのですね。
三島は、「なにもない」ということを見てしまう。しかし三島は、海を見ていたのではないか。ところがその海は、最後には脱落してしまっている、と。
虚無とは、究極の真実であるのかどうか。いやそうではなく、虚無が「ゼロ」であるとすれば、「ゼロ」とは異なる何かこそが、真実であるのではない。
それは「一」である。ただ、「一」だけがある、というのであれば、それは「ゼロ」だけがある、というのと変わらない。
「一」は、それがまさに「一」として構成されるための「他」が存在してはじめて「一」たりうる。「一」がある(「一」がそれ自体独立したものとしてある)とはいえないが、しかし「一」がない、ともいえない。これは「一」があるともないともいえない、ということであるけども、大澤先生はこれを、「一」というものがつねに「これには尽きない」ものである、という具合に解釈して、それが海である、というのですね。「一の内的不可能性」のイメージとして、海があるのだと。
これは、「一」というのは、存在でもなければ虚無でもない、ただそれだけでなく、存在からも虚無からも余剰たらざるをえない何かを抱えている、ということですね。いいかえれば、「これに尽きるものではない」という感覚です。これは「海」であり、「女」に対する原初的な感覚であり、唇に触れても届かない女であり、それは三島文学の出発点にあった、というわけですね。これは味わい深い解釈です。海は、虚無ではなく、すなわち「不毛の海」ではなく、「豊饒の海」なのであると。その解釈が本書の最後に示されています。