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■ウェルビーイングを測る指標にNPOの活動量を

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  山田鋭夫『ゆたかさをどう測るか ウェルビーイングの経済学』ちくま新書    山田鋭夫さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。 近年のウェルビイング論の重要な内容が、一通り紹介されています。そしてそのうえで、真の豊かさを実現するためには NPO の活動に期待したいというのですね。 これは、民主党の鳩山政権が「新しい公共」という理念で推進しようとした政策でもあります。私も賛成です。 NPO の担い手が、あらたなリベラルの担い手になっていく。 しかしこの点をウェルビイングの指標に加えることはできるでしょうか。 NPO に参加したことがあるかどうか、という意識調査になるでしょうか。本書で紹介されている、「ベターライフ・インデックス」のダッシュボードには、この NPO の指標がありません。国連はこのような指標を使っていない。 また、 NPO 活動がなぜ重要なのかを基礎づける際に、本書では「連帯経済」の理念が論じられていますが、不思議に思ったのは、この「連帯」ないし「相互扶助」の理念について、最近新たな議論を展開している思想家や理論家がいないということです。 山田鋭夫先生の訳で 2023 年に刊行された、ロベール・ボワイエ著『自治と連帯のエコノミー』(藤原書店)があります。この中で論じられている、連帯論の基本文献のリストが、本書『ゆたかさをどう測るか』に挙げられています (94) 。これをみると、ボワイエが参照した最新の文献が 1977 年刊で、そのひとつ前の文献が 1907 年刊ですね。しかもいずも、あまり知られた本ではありません。クロポトキンの『相互扶助論』のフランス語版は 1902 年に出ました。しかしその後、フランスでも新たな思想が展開されていないのでしょうか。 現代の NPO 活動を支える思想は、さまざまであってよいと思いますが、それにしても現代の規範理論の資源がほとんどない。思想面でも指標面でも、この NPO による「新しい公共性」を基礎づける学問は必要だと思いました。 この他、本書で長めに引用されている、スミスの『道徳感情論』の一節が、とても印象的です。その引用を受けて、山田先生は以下のように補っています。 「富を得れば幸福が得られると信じた若者が、肉体的精神的辛苦をいとわず、日夜の努力と勤勉によ...

■『六法』を読むな、『資本論』を読め

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  出口一雄 / 小石川裕介編『法学者たちと出版 戦後日本法学の知的プラットフォームをたどる』弘文堂   森元拓さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   本書所収のご高論、「法学メディアと「党派性」――『法律時報』と『ジュリスト』」を興味深く拝読しました。  法学界には『法律時報』と『ジュリスト』という、二つのメジャーな雑誌があります。 『法学時報』は、戦後、マルクス主義的、革新左派系の雑誌になった。 これに対して『ジュリスト』は、実務家のための実務的な雑誌として、戦後に創刊されたのですね。  『法律時報』は、法学界のコモンセンスを構築する同人誌になった。ということは、戦後の法学界の主流は、革新左派だった、ということですね。  その当時(戦後から 1980 年ごろまでか ? )は『六法全書』よりも、マルクスの『資本論』が優先された、というは興味深いです。  「潮見利隆は、大学院に入った際、指導教員の川島武宜 [1909-1992] から、一年間は六法を開くな、と言われたという。そして「六法全書の代わりに岩波の『日本資本主義発達史講座』 [1930] をこの一年間によく読め、それにもう一つ…『資本論』を読め、と言われた。」」 (179)  このように教育の現場で、何を読め、何を読むな、という指示でもって、弟子たちの思想形成を操作していたというのは、いまでは考えられないですね。しかしこうした読書の指導が、当時の革新左派の思想と運動を支えていた、というのは興味深い事実です。

■美徳でも悪徳でもない欲求とは

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バーナード・マンデヴィル『新訳 続・蜂の寓話 私悪は公益なり』鈴木信雄訳、日本経済評論社    鈴木信雄さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    本書は、マンデヴィルの『続・蜂の寓話』の新訳です。以前の翻訳も比較的新しい訳だったと思うのですが、さらに研究が進んで、 21 世紀にこのように新訳で読めるようになったことを、心よりお祝い申し上げます。  本書の訳者解説は、主としてマンデヴィルとアダム・スミスの比較に充てられています。明快で、情熱的な文章だと思いました。  スミスは、マンデヴィルの良質的な部分を継承した、といえるのですね。マンデヴィルは、個人にとっての悪徳(虚栄を求める欲望)が結果として公益につながる、と指摘しました。だから人間は悪徳人でかまわないし、悪徳を発揮したほうが、社会はかえってよくなる、と発想しました。マンデヴィルにとって、美徳を求める心は、腹黒いものだとされました。しかしスミスは、美徳への愛は、純粋に愛すべきものだというのですね。賞賛されたいとか、承認されたいという欲望は、腹黒いものではなく、すばらしい情欲であり、尊い情欲だ、というのですね。  正確に言えば、スミスは、賞賛欲や承認欲にはいろいろあって、虚栄心 = 悪徳によるものもあれば、美徳によるものもある、と考えました。マンデヴィルのように単純に悪徳だ、とみなしえないと考えたのですね。  すると、二つ検討すべき点があると思います。  一つは、悪徳に基づく賞賛欲・承認欲と、美徳に基づく賞賛欲・承認欲の、いずれを鼓舞した方が、社会はいっそう繁栄するのか、という問題です。スミスの『道徳感情論』を、『国富論』のテーマにつなげて読むと、どんな追加考察を得ることができるのか。  もう一つは、悪徳でも美徳でもない賞賛欲・承認欲というものがあるはずで、むしろそのような、「悪徳や美徳に還元されない人間の欲求」、あるいは人間を突き動かす動力こそ、社会の繁栄にとって重要なのではないか、という論点です。  私が拙著『自生化主義』その他で考察しているのは、この悪徳でも美徳でもない欲求についてです。これは従来の道徳論では、うまく主題化できていないようにみえます。このような観点から、マンデヴィルを読みなおしてみようと思いました。

■市場社会主義は可能か

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  松井暁『社会民主主義と社会主義』専修大学出版局   松井暁さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    社会民主主義の理念をもう一度評価直して、社会主義の思想的・政策的可能性を見出そうというのですね。現在の日本共産党やその他の社会主義・共産主義政党の立場を、現実的な観点から位置づけようとすれば、この本に書かれているような論理になるのではないか、と思いました。  総論として、マルクス主義、あるいはマルクス派が、一枚岩ではなく、結構、多様だということが分かりました。  マルクス派は、資本主義の形成期(日本では 20 世紀の後期を含む)には、経済成長が重要だと考え、労働を奨励し、国家による経済のコントロールが必要だと考え、経済ナショナリズムを推進してきました。しかし資本主義が成熟すると、マルクス派の一部は、「定常社会」を求めるようになる。背後には、経済成長社会の追求が現実的ではなくなったという認識があるのでしょう。またマルクス派の一部は、脱労働(自由時間の拡充)、国家の縮小、コスモポリタンな連帯(例えば航空税のような国際的な課税制度への賛同)、などを主張するようになります。  本書の立場も、一方では、資本主義の下で福祉国家を追求する道(社会民主主義)は、その役割を終えたという立場をとりながら、他方では、「市場社会主義」の理念を掲げ、計画経済へ移行しなければならない、としています。  その際の論点は、国家がすべての企業に対して、生産手段の社会的所有を法的に義務づけるかどうか、にあるのではないか。  例えば大学という組織は、その設備を社会的に所有して、そこで働く教員たちの労働を社会的に所有し、さらにその生産物たる学術的成果を公開する(オープンにする)ことによって、市場社会の条件の下で共産主義の理念にふさわしいことをいろいろ実現できているのだと思います。このような組織の在り方を拡張していけば、やがてすべての組織は社会主義的に運営できるかもしれない。ではそのための道筋をどのように描くのかですが、政策ビジョンを争うことが必要です。政策をめぐる論争のなかで、あらためてイデオロギーの真価が問われるのではないか、と思いました。  

■大塚久雄の本の中国語訳です

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周雨霏訳、中国語版、大塚久雄『共同体の基礎理論』上海文芸出版社   周雨霏さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。 大塚久雄の最もよく読まれている本の一つを、中国語に翻訳されたのですね。しかも今回の中国語訳は、意外なことに、初訳なのですね。日本で出版された同書と比べて、表紙のデザインがよいです。 出版を心よりお喜び申し上げます。中国人留学生の方々に、勧めたいと思います。

■重商主義と古典的自由主義の違いは微妙

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山本英子『グラスランの経済学  18 世紀における主観価値論の先駆者』早稲田大学出版部   山本英子さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   ジャン・ジョセフ・ルイ・グラスラン (1727-1790) 。正しい発音ではグララン。彼はフランスの経済学者で、アダム・スミスと同時代人ですね。亡くなった年が同じです。スミスの方が四歳年上でした。  グラスランは、ほとんど忘れ去られた経済学者ですが、職業は、ナントの総徴税官だったのですね。当時のフランスで支配的だった経済学説は、フィジオクラート(重農経済学)の理論でした。これに対してグラスランは、重商主義的な関税政策を提唱します。しかし実際には、グラスランが提案した関税は、土地だけでなく奢侈的な消費に対して課税するための手段であり、必ずしも一国ナショナリズム的な発想に基づいていないのですね。その意味では、重商主義というよりも、自由市場経済主義であり、ただ、どこに課税するかという問題ですね。グラスランは、あまり生産的ではないにもかかわらず奢侈な消費をしている貴族たちに課税することが、一国の富を増大させる、と発想したのですね。  この奢侈的な消費に対する消費税という発想は、グラスランが徴税の仕事を専門にしていたこともあって、実際に導入すれば機能したでしょう。非現実的だといった批判は当たりません。当時は、富裕層がどれだけの所得を得ているのかを把握することは、とても難しかった。しかし富裕層は、その地位にふさわしい消費(地位消費)をする。そうしないと、自分の社会的地位を維持することができないからです。そのような社会規範があった。だから、生命維持に必要な基本財には消費税を課さずに、奢侈財に対して消費税を課すことができたし、それが相応しかった。消費税を課しても、高い地位にある人たちは、自分の地位を維持するために「地位消費」を続けるからです。具体的に、奢侈財の原材料を輸入する際に、関税を課す、というのですね。  そしてこの課税で得た収入によって、国内の製造業を支援していく。これは、一見すると重商主義ですが、解釈の仕方によっては、自由市場経済のための消費税制度であり、スミスの場合も消費税に賛同していましたから、古典的自由主義として解釈できますね。  このように解釈してみると、重商主義と古典...

■北海道の戦後の馬取引は、ひどかった

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  松浦努『馬喰の流通経済学的研究 北海道蘭越町・八雲町・七飯町の事例を中心として』北海学園大学出版会   松浦努さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    本書は、敗戦後の北海道における「馬の市場取引」に関する、聞き取り調査に基づく研究です。馬の取引は、 1960 年前後をピークに流通したのですね。しかしいまはほとんど流通していない。戦後の馬取引の実態が、多くのインタビューから鮮やかに解明されています。経済史のすぐれた研究です。  研究の手法が徹底的であることにも感銘を受けましたが、何よりも、対象としている市場取引がとても興味深い。これは馬の売り買いの話なのですが、あまりにもひどい取引ですね。 馬を農家に売る、あるいは農家から買う商人を、「馬喰(ばくろう)」といいます。馬喰は、とてもひどい。たんに安く買って高く売るというだけでなく、これはもう、ほとんど農家の人たちをだまして儲けているわけです。市場経済がいかに非倫理的で、共同体の外部に存在していて、信用のならないものなのか、ということがよく分かります。 これはそれほど昔の話ではありません。戦後の話であり、現在の 70 代、 80 代の人たちが、実際に経験した取引であります。  経済学的には、この馬取引の市場は、農家と商人(馬喰)のあいだに、圧倒的な情報の非対称性があるという観点から説明されるでしょう。農家の人たちは、馬を見ても、それが病気なのかどうか、分からないで取引せざるを得ない。また農家の人たちは、馬を売るときに、馬がどれだけの市場価値をもつのか、分からないで売るしかない。とにかく情報が流通していない。非対称である。馬が病気で使えなくなるリスクを保障する仕組みもないわけです。  いずれにせよ、 1960 年代になると、しだいに近代農法が広まって、馬の代わりに、トラクターで農業をすることになります。しだいに馬は不要になります。 しかしそれ以前の農家の人たちは、馬を使って農耕していた。そして馬喰にだまされて馬を売買していた。これは、当時の市場経済が成熟していないことを示していますが、と同時に、市場経済を克服する社会主義経済の理想が、当時においてなぜ魅力的にみえたかを説明するように思います。  蘭越町の馬の飼養頭数の推移をみると、 18...

■日本の福祉政策の基礎を築いた思想とは

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  西沢保『福田徳三とその時代』信山社 西沢保さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   大正後半から昭和の初頭にかけての時代は、しばしば「一橋(大学)の黄金時代」と言われるのですね。その中心にいたのが、リベラリストである福田徳三や上田貞次郎でした。 上田定次郎は、『新自由主義』という分厚い本を書いています。福田も上田も、当時のマルクス主義に反対して、新自由主義の立場に立ち、経済政策を論じました。もっとも当時の「新自由主義」の意味は、今日の意味とはやや異なります。何が異なるのかについては、検討に値するでしょう。  福田徳三は、 1930 (昭和 5) 年に、 55 歳の生涯を閉じました。それまでに、単行本 37 冊、全集 l 部を著し、定期刊行物や論集や辞書等に掲載された論稿は、約 300 篇でした。これは偉業です。 では福田は、私たちに何を残したのでしょうか。  学説史的にみると、福田は、ラスキン、ホブソン、アントン・メンガーの三人に影響を受けている。では福田は、この三人とは異なるオリジナルな経済思想を構築したのかどうか。  本書を読むかぎりでは、福田は、ラスキンやホブソンに影響を受けたけれども、そこから新しい思想を展開したわけではないようではないですね。  他方で福田は、アントン・メンガーの影響を受けていますが、アントン・メンガーを越えて、労働契約を「労働協約」に格上げすることを主張する。私法レベルでの労働契約ではなく、社会政策レベルでの労働協約にすべきであるというのですね。具体的に、治安警察法第 17 条の廃止、労働団結権、同盟罷工権、労働組合法案、 ILO ・国際労働保護法制の実施(失業問題を含む)などを提唱します。  こうした社会政策について福田が論じるとき、福田は、メンガーの次の世代のドイツの法学者、ジンツハイマー (Hugo Sinzheimer) の『労働協約論』 (1907-1908) を参照しているのですね。福田の言っていることは、やはりドイツの最先端の学問を下敷きにしているようですね。ここら辺は、さらに検討に値すると思いました。  福田は、学者としては「超」がつく秀才であるけれども、思想家としては、二流にみえます。しかし驚くべきは、福田は先見の明があって、日本で自由主義的...

■倫理経済の観点から経済思想史を振り返る

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    ジェイコブ・ソール『〈自由市場〉の世界史 キケロからフリードマンまで』北村京子訳、作品社    作品社編集部さま、ご恵存賜りありがとうございました。  以下、「シノドス・ライブラリー」 https://synodos.jp/library/29498/ に寄せた書評を、こちらのブログにも掲載します。    自由市場を擁護する議論は、アダム・スミスよりもはるか以前の古代ローマ時代にもあった。例えば前 1 世紀を生きたキケロは、自由市場を擁護して農地への課税に反対した。政府が介入して統治するよりも、貴族が農民に節度と美徳をもって対応することが重要と考えた。キケロのこの立場は、現代の文脈では、美徳によって市場経済を統治する「新保守主義」と言えるだろう。 本書は、キケロからフリードマンまでの思想史を、コンパクトにまとめた良書である。とくに興味深いのは、 17-18 世紀のフランスを生きたボアギュベールの思想だ。彼は農業こそ、自由な市場社会における富の源泉と考えた。農民への減税と、富裕層への増税を訴えた。貧しい人たちの税負担を減らして市場を活性化し、生産的ではないが豊かに暮らしている人には重い税を課して、その富を再分配する。そのような美徳のある政策こそ、自由な市場経済を活性化するとした。 私たちは、「市場経済は不安定だから政府介入が必要になる」と考える必要はない。むしろ「市場経済を活性化するためには、倫理が必要」と発想してはどうだろうか。市場経済の歴史を独自の観点で読み解いた本書は、経済思想の入門書としてもおススメだ。    このように、「倫理経済」「新保守主義」の観点から経済思想史を振り返るというのは、現代の経済思想研究の一つの潮流ですね。