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■今年聴いた音楽5選(2025)

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   年の瀬が迫ってまいりました。 皆様、いかがおすごしでしょうか。  最近になって気づいたのですが、私はすでに、ミッシェル・フーコーより長生きしています。これはどういうことでしょう。愕然としてしまいます。 フーコーは 57 歳と数カ月で逝去されました。ウェーバーは 56 歳で逝去されました。私はこの二人の巨人よりも長生きしているというのは、耐え難い事実です。  那須耕介さんが亡くなられてからも、すでに 4 年と3か月が経ちました。そしていま、私の音楽の趣味は、那須さんの趣味にしばられているようです。「これは那須さんが聴きそうな曲だな。だからもっと聴きこむことにしよう」という具合に、私の聴覚が動いてしまいます。テイストの影響というのは、恐ろしいですね。  *  今年、私が YouTube や Spotify で出会った音楽のリストをご紹介します。 100 曲くらいです。   https://music.youtube.com/playlist?list=PLFExZbc_M4ZMX8xqEzzjgowGuxeoPgjqS    昨年も触れましたが、私はだんだんクラシック音楽を聴くようになりました。今年は 40 年ぶりに、スピーカーを買い替えたということもあります。しかしオーディオの機材よりもなによりも、心地よいと思う音楽そのものが変化していくのですね。変わらないのは、作曲家の創作エネルギーに刺激を受けたい、という傾向のみです。創作するという観点から、今年印象に残った音楽を5点、挙げてみます。順不同です。   ■エドゥアルド・キプルスキー「平和への祈り~歌曲集」 https://music.youtube.com/watch?v=yrAeH2OJf-A ロシア生まれで、現在はウィーンで活躍している作曲家・ピアニストです (1986-) 。これまでピアニストとして、さまざまなアルバムを出してきましたが、このアルバムは作曲がすばらしい。   ■ Robin Verheyen / Robyn Schulkowsky / Goeyvaerts String Trio,“Jakob's Mirror” https://music.youtube.com/wat...

■プルードンは反ユダヤ主義者だった

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フランシス・デュピュイ = デリ、トマス・デリ『アナーキーのこと』 片岡大右 訳、作品社    作品社、編集部さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    本書の「訳者あとがき」(片岡大右)で、ジェームズ・スコット著『実践 日々のアナキズムーー世界に抗う土着の秩序の作り方』(岩波書店、 2017 年、原著は 2012 年刊)が紹介されています。このスコットの本は、国家(リヴァイアサン)の必要性を認めながらも、アナキズムというものが、私たちの思考と日々の生活を大いに活気づけるものだ、と主張しているのですね。 アナキズムというと、反国家体制の思想と思われがちですが、そのような思想にも、万歳三唱とはいかないけれども、万歳「二唱」までは賛同しうる。いわば「方法としてのアナキズム」を、日常生活と日々の思考に取り入れることができる、というわけですね。  本書『アナーキーのこと』は、父と子の会話というスタイルで、アナキズムの関する諸々の疑問に、ストレートに答えを出しています。 アナキズムの醍醐味、そして、アナキズムの危うい欠点を、それぞれ理解することができます。  最も衝撃的だったのは、プルードンが反ユダヤ主義者だったことです。プルーンは『手帳』で、ユダヤ人は消滅すべきだ、と書いています。    この人種に反対する論文を書くこと、この人種は万事を毒に塗〔まみ〕れさせ、あらゆる国に入り込みながらどの人民とも決してひとつにならない。 [ … ] フランスの助成と結婚した者を除き、この人種をフランスから追放するようにもとめること [ … ] 。ユダヤ人は人類の敵である。この人種をアジアに追い出してしまうか、さもなければ絶滅させなければならない。 [ … ] 火器を用いるのか融合させるのか、それとも追放か、いずれにせよユダヤ人は消滅する必要がある……。 [ … ] 熟慮のうえで、最終的な結論として、わたしはユダヤ人を憎んでいる。ユダヤ人への憎しみは、イギリス人への憎しみと同様、我々の政治的信念の一条項をなす。(以上、 95 頁の引用文を再掲)    このような憎悪が、アナキストのプルードンによって書かれたという事実を、私たちはどう受け止めたらよいでしょう。深刻な問題です。

■トランプが生み出した思想家たち

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  井上弘貴『アメリカの新右翼 トランプを生み出した思想家たち』新潮社 井上弘貴さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。  トランプ政権は、なぜとんでもないのか。関税の引き上げ、炭素の排出による地球温暖化の否定、移民の排斥、エリート大学に対する批判、等々。こうした動きの背後には、どんなイデオロギーがあるのか。そして米国のどんな苦悩やジレンマがあるのか。本書は、深く掘り下げています。  本書の「あとがき」に書かれていますが、本書の副題「トランプを生み出した思想家たち」というのは、実は言いたいことと違うのですね。トランプ大統領の背後に、すぐれた思想家がいたわけではない。むしろトランプのおかげで、小さな思想家たちにスポットライトが当たった。だから「トランプが生み出した思想家たち」という副題の方が、本書の内容を適切に表している、というのですね。  デリック・ベルは、 1971 年に、ハーバード・ロースクールで終身在職権を得た最初のアフリカ系教授です。彼は 1980 年に、雑誌『ハーバード・ローレヴュー』に、「ブラウン対教育委員会事件と利益集約のジレンマ」という論考を寄せました。米国の公立学校では、人種隔離政策は、 1954 年以降、違憲とされてきました。しかし 1980 年になっても、実際には黒人の子どもたちは劣位に置かれています (50) 。  これをどうすれば改善できるのか。司法には限界がある。司法によって「違憲」と判決するだけでなく、何らかの「立法」を通じて、黒人の劣位を克服するための政策を導入する必要がある。ではどんな政策が必要なのか。  ベルの提案は、「黒人のみからなるモデル学校を新設しよう」、あるいは「既存の学校をそのようなモデル校にしよう」、というものだったのですね。これは学校選択の自由を徹底して、人種間の混淆を進めようとする M ・フリードマンの考えとは異なります。保守主義的な発想で、黒人の地位を上昇させようというのですね。  もう一つ、黒人が米国ナショナリズムにコミットする場合の黒人の歴史観に、興味を抱きました。黒人は米国で、奴隷の身分から、市民の身分を手に入れます。その歴史的承認の物語を大切にする。そのような歴史認識が、米国に対する黒人の忠誠心を養うのですね。このような観点から歴史を振り返ると、黒人にとって重要な...

■持続可能な消費のガイドが必要だ

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藤原なつみ『サステナビリティの隘路 「持続可能な消費」の実現はなぜ難しいのか』新泉社   藤原なつみさま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   まさにいま必要な研究であります。新しい研究を模索して拓いたと思います。そのフロンティア精神に、心から敬意を払います。 持続可能な消費は、いかにして可能かという問いは、ストレートな問題意識ですね。ところがこの問題に応えてくれる先行研究は、ほとんどないのですね。これが問題です。 本書は持続可能な消費を論じるために、「理論」として、「実践理論」を基礎に据えています。これは適切な選択であります。また、アンケート調査や、インタビュー調査によって、人々の環境意識を明らかにしています。 中心的な問題は、環境意識を高く持って、持続可能な消費行動をすることが難しい場合に、どうやって持続可能な消費を実現していくのかです。 この問題に応えるためには、弱い個人が、ある種のナッジに基づいて、あまり意識に負担をかけずに行動するとか、あるいは、環境問題に詳しいリーダーに追従して、フォロワーになる。例えば生活協同組合に加入して、組合の提案する消費を実践する。このような消費行動を組織化することで、持続可能な消費を実現していくことができるでしょう。 生活協同組合のような中間集団は、持続可能な消費のリーダーとして、重要な社会的役割を求められていますね。 本書は、「サステナビリティ迷子」という言葉を提案しています。私たちの実感を表すいい言葉だと思いました。私たちはどのようにすれば、持続可能な消費について迷わなくて済むのか。情報、考える時間、環境問題についての理解の欠如(その能力の限界)、地図そのものの欠如、などの要因があり、これらをすべて克服することが必要です。  大きな問題は、「これが持続可能な消費だ」と言えるような、消費に関するガイドや地図がないことでしょう。しかしそれでも、生活協同組合のような中間集団は、環境問題に立ち向かっています。私たちはその取り組みに希望を見出して、消費の問題を考えていくことができます。本書は悲観することなく、希望を語っています。ここからどうすべきか。橋頭保となる研究です。

■スマホに時間を取られすぎると

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  ヨハン・ハリ『奪われた集中力 もう一度 “ じっくり ” 考えるための方法』福井昌子訳、作品社    この本は、世界で 100 万部のベストセラーであり、韓国で 25 万部のベストセラーなのですね。日本でも売れているでしょうか。それほど読みやすいわけではなく、筆者が自分の体験談を語る部分が多くて、しかも、それなりの分量です。  売れる理由はおそらく、世界では多くの人たちが、スマホや PC に時間をとられすぎていて、人生の満足度が低いという事実にあるのでしょう。  人々はネット漬けで、集中力がなくなってきた。人生をじっくり考えなくなったのだと。  平均的な米国人は、毎日、スマホを 3 時間 15 分、いじっています。これは長いでしょうか。スマホだけでなく、パソコンも使うでしょうから、全体で考えたいですね。 別の調査では、米国人は毎日、 5.4 時間、スマホをいじっている、という報告もあります。   1986 年の段階では、スマホはありませんでした。パソコンはありましたが、インターネットはありませんでした。その頃の人々は、テレビ、ラジオ、読書、新聞などで、情報を摂取していました。その情報量を新聞に換算すると、毎日 40 紙の情報を摂取していたことになります。  同様の計算方法で、 2007 年の人々は、どれだけの情報を摂取していたのでしょうか。調査によると、新聞換算で、 174 紙になるというのですね。これは四倍以上です。すると 2025 年の現代人は、もっと情報を摂取しているでしょう。  その一方で、現代においては、スマホで随時メッセージを受け取っていると、成績が悪くなる、という結果も報告されています。 睡眠時間は、この 100 年で 20% も減っています。肉体労働をしなくなった分だけ、現代人は睡眠時間を減らすことができるのかもしれません。しかし睡眠時間の減少は、集中力を削いでいるのかもしれません。  現在、約 57% の米国人は、一年間に一冊も本を読まないそうです。 2008 年から 2016 年にかけて、米国の小説市場は、 40% も縮小したといいます。これもまた、現代人の集中力の欠如を示すデータかもしれません。  この本から得られる教訓は、スマホをいじらないで、読書量と睡眠時間をともに増やし...

■日本人は日本の映画を見るようになった

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間々田孝夫『幸福のための消費学』作品社   間々田孝夫さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    「グローバル化」や「グローバリゼーション」という言葉が、一時期はやりました。 この言葉を含むタイトルの本は、どれだけ出版されてきたのか。国立国会図書館の図書検索で、検索してみると、 2004 年がピークで、 314 冊でした。ところが 2023 年には、 36 冊にまで減っているのですね。 しかもこれは、たんに言葉の流行が終わったという問題ではなく、社会の実態として、グローバル化とは逆の流れを示している。  例えば、映画産業です。   2005 年は、邦画:洋画の興行収入比は、 41.3% : 58.7% でした。   2024 年は、邦画:洋画の興行収入比は、 75.3% : 24.7% になりました。  つまり日本人は、諸外国の映画を見なくなった。これはまさに、グローバル化とは逆の動きです。  「グローバル化」というと、コカ・コーラや、マクドナルドのハンガーガーや、スターバックスのコーヒー、というイメージがあります。しかし例えば、韓国映画は、あまりグローバル化のイメージがありません。むしろローカルなイメージです。「多国籍なローカル化」、と表現した方がいいかもしれません。 世界はいま、アメリカ文化を中心とするグローバル化を相対化しているのかもしれません。そして日本人は、日本の映画を見るようになった。これはたんなる文化ナショナリズムではなく、なんと表現すればいいのでしょう。脱グローバル化と呼ぶべきなのか。新たな言葉と分析が必要と思いました。

■ポピュリズムが必然だった理由

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  水島治郎編『アウトサイダー・ポリティクス ポピュリズム時代の民主主義』岩波書店   今井貴子さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    英国では 2024 年に、久しぶりに労働党の政権が誕生しました (2024.7.-) 。 14 年ぶりです。労働党党首のキア・スターマーが首相になりました。  スターマーは最初に、「脱ポピュリズム宣言」をしたのですね。ポピュリズムによって政治的正統性を獲得しようとする政治家は、労働党内にもいますし、保守党の政治家のなかにもいます。(新しい政党「リフォーム UK 」は、まさにポピュリズム政党です。)  労働党内では、ジェレミー・コービンが代表的なポピュリストです。コービンは、 2015 年から 2020 年まで、イギリス労働党の党首を務めました。急進的な左派であり、反緊縮財政や、一方的な核廃絶を掲げ、あるいはまた、郵便などの基幹産業を国有化することや、富裕層への課税強化などを掲げました。  コービンが労働党の党首に選ばれた背景には、党首選のルール変更がありました。それ以前は、労働党内のグループごとに、党首の選出権を割り振っていました。しかし 2014 年からは、一般の党員だけでなく、加盟団体のサポーターや、登録サポーター (3 ポンド支払えば、だれでもサポーターになれる。ただしこの制度は 2021 年に廃止された ) も、一人一票を投じることができるようになりました。  この制度の下で、党員やサポーターから  絶大な支持を得たコービンは、 2019 年の選挙で惨敗してしまいます。その理由は、いろいろ分析されています。大きな理由は、急進的な経済政策をとったからではなく、むしろコービンに対する人々の評価が変化したことにあったようですね。  英国では、労働党だけでなく、保守党も、党首の選出を党員一人一票制にしたのですが、そうしなければならない理由は、党員が減少しているからです。なるべく多くの党員を得たい、そして政治的な影響力を維持したい。そのような政党の関心からすれば、党員一人一票制は、必要です。一人一票制のもとで、ポピュリズムによって政党を再生することは、残された選択肢のなかで、最も有望な選択肢だったのです。  しかし現代の労働党や保守党は、脱ポピュリズム...

■言いっぱなし、聞きっぱなしでいい

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  横道誠/だいまりこ『空気が読めない大学教員と自己嫌悪の YouTuber はみずからのコミュニケーション困難にどう向き合ってきたか チームワークが苦手な人へ』翔泳社   だいまりこさま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    本書は、東京中延の隣町珈琲で、全六回にわたって開催されたトークイベントの内容をまとめたものですね。楽しく読みました。 イベントでは毎回、二人のトークに加えて、参加者の方々の質問に答えるコーナーがあります。イベント全体のテーマは、コミュニケーションの困難です。 例えば、コミュニケーションの困難を克服するための、自助グループがあります。自助グループでは、「アノニマス系」という組織の作り方があります。アノニマス系とは、ある特定の人が権威的な存在にならないように、他人の言ったことに対して、「同調」したり「反発」したりせずに、「言いっぱなし、聞きっぱなし」にするのですね。 もし誰かの発言に誰かが応答すると、そこに是認 / 否認の関係が生まれてしまう。これはミクロな次元で、権威が発生する場面です。そのようなミクロな権威の作用を、完全に避けようというのですね。言葉によって、誰かを魅了したり非難したりする人間関係を、いっさい生まないようにするのだと。  このやり方のいいところは、それまで話すのが苦手だった人が、すらすら話すことができるようになる点です。自分で自分のことを口に出して、それで自己認識を新たにすることができます。このようなアノニマス系のコミュニケーションは、日常生活においても示唆的です。  別のトピックで、例えば SNS で一回しか会ったことのない人から、ダイレクトメッセージがたくさん送られてくることがあります。これをブロックしていいかどうか、という問題が論じられています。その答えは、ブロックしていいと。そして「来世ではご縁がありますように」とお祈りする。これが横道さんの提案なのですね。とても豊かな考え方だと思いました。  他者とのコミュニケーションは、困難ばかり。すべて誠実に対応していたら、自分のなすべきことができません。そういうジレンマに陥ったときに、どんなコミュニケーションをすればいいのか。それは、他人に承認や是認を求めずに、言いたいことを口にする。そういう一方通行...

■親友家族を認めてよいか

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  阪井裕一郎『結婚の社会学』ちくま新書   阪井裕一郎さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    子どもを産み育てるためには、まず結婚しなければならないという慣行があります。しかしこの慣行が、かえって日本の少子化を助長している。結婚してから子どもを産まないと社会的に不利になる、という現状に問題があるのですね。 ではどうやって、家族制度を変革していけばいいのでしょう。  本書は、結婚をめぐる理論と歴史について、一通り検討しています。このテーマの入門書の決定版です。   2017 年に、アイルランドで、次のような結婚(同性婚)が話題になりました。一方は、 83 歳のマット・マーフィーさん。もう一方は、 58 歳のマイケル・オサリバンさんです。いずれも男性です。歳の差は 25 歳。二人は同性婚をしました。 二人はそれまで、長く親友関係にありました。恋愛関係はありませんでした。しかし二人は、ついに結婚します。愛し合っているからではありません。 83 歳のマーフィーさんは、 58 歳のオサリバンさんに、老後のケアしてもらいたいのです。その代わりに、不況で仕事とアパートを失ったオサリバンさんは、マーフィーさんの死後、家を相続する予定です。このような「ケア」と「相続」の友情契約に基づいて、二人は結婚しました。  二人は結婚しなくても、いっしょに暮らすことができたでしょう。しかし結婚しないと、オサリバンさんはマーフィーさんの家を相続することが難しい。高額の譲渡税が課せられてしまいます。二人は、譲渡税を免れるために結婚したのですね。 このような結婚は、「同性婚」の悪用でしょうか。そもそも結婚というのは、性的な意味で愛し合った二人がするものだから、友情にもとづいて財産を譲渡したい / されたいという理由で結婚するケースは、認められるべきではないでしょうか。  しかし「友人関係」と「家族関係」の線引きは、難しい。同性婚ではなくても、異性婚でも、友人関係に基づく結婚という同じ問題が生じます。 家族とは何か。どんな家族を認めるべきか。この問題は、法制度や行政制度の問題だけでなく、ある企業が「家族割」などの割引によってビジネスを展開する際にも、重要な関心事になります。企業は、「家族」の定義を拡大して、消費者たち...

■ハイエクの本質は非本質主義

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  太子堂正称『ハイエク入門』ちくま新書   太子堂正称さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    ハイエク研究のまとまった入門書です。分厚いですが、とても読みやすく、どんどん読み進めることができます。  ハイエクは、登山、ハイキング、スキー、演劇、写真、音楽鑑賞などを趣味としていたようですが、音楽の守備範囲については、後年に至るまで、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームスまでだったようですね。 ハイエクと同時代のウィーンでは、ブルックナー、マーラー、リヒャルト・シュトラウス、シェーンベルク、ウェーベルンなどが活躍していました。こうした当時の「前衛」に、ハイエクはあまり興味がなかったのですね。アドルノとは対照的です。 私たちは、現代の前衛的な現代音楽を聴くかどうか。ハイエクが現代に生きていたとしたら、聴かなかったでしょうね。しかし私はこの歳になっても、前衛音楽を聴いています。ここら辺が、私とハイエクの大きな違いかもしれません。 本書で気になったのは、 405 ページで、新自由主義について論じられている箇所です。松尾匡によれば、近年の日本において、「上位下達的な民営化や民間委託、規制緩和、財政削減、国際的な市場統合といったさまざまな政策は、実際には非ハイエク的であり、むしろ彼が批判対象としたものであったと喝破している。」と。そして太子堂さんは、これは「大変重要な指摘である」と評価していますが、私はそうではない、と思いました。しかしこの点は、松尾匡先生の本を読んでじっくり検討しないといけないですね。 本書は、ハイエクの思想が本質主義的なものではない、と主張します。つまり、ハイエクの思想は、時代と場所が変れば別の含意をもつはずで、新しい含意を引き出しうる、ということですね。そのような点に、ハイエクの思想の魅力と生産性がある。これはたしかに、その通りだと思います。 各種の民営化や民間委託が、なぜハイエク的な政策ではないのか。ハイエク的にこれを進めるためには、何が必要なのか。ハイエク的に進めた方が、望ましいのではないか。このような議論の検討が必要でしょう。  

■経済原論を刷新する野心作

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  海大汎〔ヘ・デボム〕『労働者 主体と記号のあいだ』以文社   海大汎〔ヘ・デボム〕さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   二作目ですね。宇野派経済学の理論的発展を示すと同時に、根源的なところでは、宇野経済学とは別の原理を導入して、「経済理論」を拡張していると思います。とても粘り強い考察であり、体系的に理論を刷新するという野心をもった、きわめてすぐれた成果であると思います。 へデボンさんは、もともと韓国で、日本語が読めない段階で、柄谷行人の『世界史の構造』の韓国語訳を読み、それで宇野派の存在を知ったのですね。そしてそこから、日本語をマスターして、宇野派の経済学を理論的に発展させた。これは日本のアカデミズムにおいて、特筆すべき達成ではないかと思います。  この本の序論で、各章の内容がまとめられています。しかしこの序論を読んだだけでは、理論的に何を達成したのか、よく分かりません。読者は各章を読むしかありません。序論は、もっと専門的に書いてもよかったのではないか、と思います。  理論的な想定として、私は本書の「労働者」の規定とは別の考えを持っています。第一に、本書は、労働者が「なんでもつくれる」といっても、それは人間の本然の諸能力の範囲内で「何でもつくれる」にすぎない、と規定しています。これは誤っていると思います。人間は、そのような「本然の諸能力」を超えることができますし、できるからこそ、文明を発展させてきたのだと思います。これは、アマルティア・センのケイパビリティ概念についてもいえますが、人間の能力をある能力の束として捉えることは、やはりリアルではない。人間は、自分が知らない能力 = 潜勢力をもっているし、私たちが本然的だと想定している能力を超えた潜勢力をもっている。このように想定することが必要ではないでしょうか (56 頁参照 ) 。  労働力は、たんなる定型的な生産手段ではない。そこには、資産、資本、資源、といった、不定形な経済的投入物、というイメージがあると思います。本書は、労働者を「資源」とみなすことが相応しいと主張しますが、このように規定する段階で、資本の運動に捉えられない労働者、例えば学校の先生などは、資源をもつ存在ではない、とみなされるでしょう。ある労働者は、資本に取り込まれるのか、それ...

■人口が半減する社会を想像しよう

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遠藤薫編『人口縮小 ! どうする日本 ?  持続可能な幸福社会へのアプローチ』東京大学出版会 遠藤薫さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。  ローマクラブが 1972 年に発表した報告書「成長の限界」は、 21 世紀の中盤に、世界人口が急激に増えて、その後、いっきに減少するという予測でした。そのような局面で起きることは、粗死亡率の急激な上昇と、同時に、粗出生率の急激な上昇だと考えられました。食糧危機のため、人々が死んでいく。そしてその死亡を補完するかのように、出生率が急上昇する。たくさん生まれて、たくさん死んでいくというシナリオだったのですね。  明治維新 (1868) の頃の日本の人口は、 3300 万人でした。 2100 年には 6000 万人程度になると予想されていますが、その後は、その半分、つまり明治維新の段階に戻ることも視野に入れないといけませんね。  いま、日本の出生率を上げるために考えるべきことは、家族主義の呪縛です。 現在、比較的少子化に歯止めがかかっている北欧諸国では、婚外出生率が50%前後です。ところが日本や韓国は、このような婚外子が、極端に少ない。結婚による家族形成を前提としないと、子どもを産むことが難しい。そのような倫理的制約が、厳しい少子化を招いている可能性があります。  女性が家庭に留まる家族主義のほうが、少子化に苦しんでいる。反対に、男女共に働く社会の方が、少子化に歯止めがかかっている。だから日本は、家族主義的な制度を解体して、男女共働きで子供を産み育てる社会にしていくべきだ、ということですね。  

■課税制度と企業行動の関係について

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櫻田譲『租税と企業行動』税務経理協会   櫻田譲さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   まずこの本の表紙と裏表紙の写真がいいですね。表紙は、ネオワイズ彗星、裏表紙は、北大のポプラ並木を前景とした星の動き(とくに北斗七星)です。いずれも櫻田先生が撮影したのですね。すばらしい作品です。  彗星を撮影するときに、カメラに内蔵されているアストロレーサーによって、対象を自動追尾することができるのですね。それでこのような美しい写真が撮れるとは、いいですね。  そしてこの本の最後に、彗星の話が出てきます。ネオワイズ彗星が今度地球に接近するときは 5,000 年後です。そのときの会計や税のシステムに思いをはせるというのは、ロマンがありますね。研究というのは、まさにこのような時間の流れのなかで進みます。 5,000 年後を展望する。このような感覚は、櫻田先生の研究のスタイルにも表れているでしょう。  本書の内容についてコメントします。  一般に、研究開発費を増額すれば、そしてその比率を増やせば、企業は長期的に成長するだろうと言われます。しかし研究開発費の比率が高すぎると、投資家はかえって悲観的になるでしょう。反対に、この比率が低いと、投資家たちは、今後はその比率が高くなると期待できる、と楽観するかもしれません。本書の第一章は、そのような仮説を実証しています。  興味深いのは、企業の研究開発比率が高くなるのは、借入金が少ない場合だ、ということです。他方で、取締役会の構成メンバーの平均年齢が高くなると、研究開発費が上昇するのですね。より長期的な観点から会社の将来を考えることができるようになる、ということですね。  「ふるさと納税」については、納税する人の関心が、しだいに子育て支援や災害復興支援から遠ざかってきた、ということが実証されています。 私は昨年、「ふるさと納税 2.0 」という論稿を、『税務弘報』 (2024.11.) に寄せました。ふるさと納税は、子育て支援という目的をもった方向に、制度全体を修正していくべきだ、と考えています。 すでに子育て支援のための施設を十分に作った自治体は多いと思いますが、今後は例えば、教育クーポン制度(塾への補助)を導入するための資源として、ふるさと納税を位置づけることもでき...

■ウクライナ戦争の本質はプーチンの自己保身

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    井上達夫『悪が勝つのか?――ウクライナ、パレスチナ、そして世界の未来のために』信山社 井上達夫さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    本書はウクライナ戦争について、正しい見方を示していると思います。第一章の扉で、ウクライナ外務大臣クレーバの言葉からの引用があります。「持続的で耐久性のある平和は、ロシアが戦場で大敗北を喫した後にはじめて可能になる」と。  そうなのだと思います。  この戦争は、西側に非があるのではなく、プーチンの自己保身戦争である。プーチンにすべての非がある。だから西側は、ウクライナを全面的に支援すべきであり、どこかで妥協して和平に持ち込むならば、今後、同じような戦争を仕掛けてくる国が現れるだろう。すると世界は、もっと平和から遠ざかるだろう。そのように推測することが正しいと思います。  最近、西谷修著『戦争と西洋 西側の「正義」とは何か』筑摩叢書が刊行されました。私は書評する機会を得たのですが、西谷先生は、西側が強く出すぎていると言って、西側諸国を牽制します。井上先生とは正反対の見方です。  この間、興味深いのは、ハーバーマスの見解です。 本書で井上先生は、徹底的にハーバーマスを批判しています。ハーバーマスは、八方美人な見解を示すのですね。ロシアに譲歩して和平を達成すべきだけれども、ウクライナは自国の領土をロシアに割譲すべきではないと。しかしどうすれば、そのような理想的な和平案を示すことができるでしょうか。  誰もそのような和平案を思いつくことができない。そのような和平案は存在しない。ウクライナがロシアに領土を割譲しないのであれば、私たちは、徹底的にロシアに圧力をかけざるを得ません。  かりにロシアに対して、ウクライナの四つの州のすべてを割譲しても、ロシアは戦争をやめないでしょう。プーチンは保身のために、戦争を継続する十分な理由がある、と考える方が正しいでしょう。  とても説得力のある見方だと思います。

■嶋津格先生の二著、刊行されました

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嶋津格『経済的人間と規範意識――法学と経済学のすきまは埋められるか』『法・国家・知の問題』信山社   嶋津格さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    ご高著二冊の同時刊行、おめでとうございます。 いずれも論文集であり、嶋津先生のこれまでの研究人生を、鳥瞰できるようになっています。一冊目は、『経済的人間と規範意識――法学と経済学のすきまは埋められるか』。二冊目は、『法・国家・知の問題』です。  一冊目の「序にかえて――ハイエクに至るまでの思想遍歴など」では、嶋津先生が 19 歳のときからの研究人生が回顧されています。とても興味深く拝読しました。  「現在 75 歳、自分の学者人生全体の意味を意識する歳になった。」という一文から始まります。最初にケルゼンの影響を受けて、学部生のときには一学期のみ、米国の大学に留学されたのですね。それから、当時まだ社会主義の国だった東ヨーロッパなどを旅して、社会主義の思想に影響を受けたのですね。 その後、嶋津先生がマルクス主義を放棄するきっかけとなったのは、アイザック・ドイチャーのトロツキー三部作を和訳で読んだことだったのですね。スターリン批判を通じて、マルクス主義者であった自分の考えが変化していったと。スターリンの問題は、スターリンだけの問題ではない、マルクス主義の本質的な問題である、ということを理解されたのですね。  そしてそこから、嶋津先生はハイエクの研究に従事されます。ケルゼン、マルクス、ハイエク、という思想遍歴をたどって、そして現在は、グローバリズムよりも、ナショナリズムに関心があるのだと。 「この間の自分の思想遍歴を振り返って感じるのは、私は自分の思想を壊してゆくことを好むらしい、という点である。」と記しています。  なるほど、これが嶋津先生の基調にある思想的スタイルなのですね。 ナショナリズムの問題は、国際的にみて、すべての国がリベラルな国になる必要はなく、それぞれの国は、自律した判断で国を運営してよい、そのような自律的判断を互いに尊重するような国際的枠組みを作ろう、ということですね。  その一方で、嶋津先生は、米国が表現の自由(批判的言論の自由)を実現している奇跡の国であると評価しています。米国は、表現の自由を捨ててはならない。ラテンアメリカの一...

■ウェッブ夫妻『消費組合運動』の影響力

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内務省研究会編『内務省 近代日本に君臨した巨大官庁』講談社現代新書   白木澤涼子さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    明治 6 年 (1873) から 1947 年まで続いた内務省を、徹底的に明らかにしようという本です。内務省の仕事を、現在の政府の部門に置き換えてみると、旧自治省(総務省の一部)、都道府県知事、警察庁、消防庁、旧運輸省(国土交通省の一部)、旧厚生省(厚生労働省の一部)、・・・などです。さまざまな仕事を、一つの省でこなしていたのですね。  その意味で内務省の発展は、近代日本の行政の発展でもあります。  興味深いエピソードは、 1906 年に結成された報徳会の機関誌『斯民〔しみん〕』が、 1946 年まで 40 年間続くのですが、この雑誌は「国家に貢献すべき精神」を育むことを狙いとしていたのですね。といっても、精神的なことばかりではなく、この雑誌には「海外の自治資料」を伝えるコーナーがありました。そのコーナーの執筆を担当した人(複数かもしれない)のペンネームは、イギリスの経済学者、シドニー・ウェッブの名前を日本語でもじって、「人見植夫(ひとみ・うえお)」とされたのですね。  実際、内務省の要人、安井英二と三好重夫は、ウェッブ夫妻の『消費組合運動』に影響を受けていたのですね。強制的な消費者組合である「市町村会」が、教育、衛星、水道、ガス、電気などの消費を、ナショナル・ミニマムの公共事業として提供すべきだ、という考え方なのですね。 1925 年に邦訳されたウェッブ夫妻の『消費組合運動』は、日本で重要な意味を持っていたことが分かりました。

■リベラリズムは国境移動を正当化する

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浦山聖子『国際移動の正義 リベラリズムと入国在留管理』弘文堂   浦山聖子さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   リベラリズムの観点から、移民の問題を本格的に論じています。とくに第九章「気候移住者の受け入れ義務」は、刺激的でした。 この本の最初に、次のような例が出てきます。 米国人のケンは、デジタル・ノマドです。タイであれどこであれ、自由に働くことができます。 これに対してシリア出身のハーシムは、ゴムボートで、エジプトからヨーロッパに不法移民として向かいます。自由に働くことができません。 どうしてこのような境遇の差が生まれるのでしょうか。そしてまた、このような不当な境遇の差は、許されるのでしょうか。  リベラルな観点からすれば、ケンもハーシムも、自由に国境を移動できることが望ましい。もちろん移動に際して、一定の制約があることは認めるとして、しかしできるだけ不公平な扱いを減らしていく。そのための論理を考える、ということですね。  そもそも、リベラリズムはなぜ、国境を移動する自由を認めるのでしょう。 その論理として、本書は、井上達夫の文章を引用するかたちで、正当化しています (49) 。しかしこの井上先生の議論は、とくに論理的に全面展開されているわけではなく、さらっと述べられているので、いろいろと疑問がわいてきます。  まず、消極的移動の自由と積極的移動の自由の区別ですが、これは「ある国を離れる消極的自由」と「ある国が移民を積極的に受け入れる自由」の区別です。 これは各国政府が、離れる自由(消極的自由)をどの程度認めているか、そして、入国する自由をどの程度認めているか、ということですね。政府側の事情の区別です。 この区別の他に、移動する当事者の側の事情に即して、「身の危険があるがゆえに自国を離れざるを得ない」ケースと、「冒険のため、自己実現のために積極的に出国したい」ケースを分けるべきだと思いました。  消極的な移動の自由は、当事者に即して言えば、危険回避と冒険願望に分かれます。積極的な移動の自由(受け入れる自由)も同様に、当事者に即して危険回避した人の受け入れと、冒険願望を持った人の受け入れに分かれます。リベラリズムが移動の自由を正当化する場合、どの自由をどのように擁護するのか。...

■政治哲学の難問は、恣意的な権力を呼び寄せる

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松元雅和『政治哲学講義 悪さ加減をどう選ぶか』中公新書   松元雅和さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   とてもウィットに富んでいます。現代の政治哲学を前に進めています。 副題は、「悪さ加減をどう選ぶか」ですが、これは功利主義的にみて、社会全体の効用が下がらないように工夫する、ということだと思います。 しかし功利主義的に考えることが難しい場合があります。集計すべき効用が争われる場合や、集計の仕方が争われる場合です。そのような場合、一定の価値観点が必要ですね。 しかし価値観点が争われる場合、しかも、その争いが究極的な壁にぶち当たる場合は恐ろしい。哲学的にみて「価値の争い」を決着できないとき、政治家は恣意的な権力行使を正当化できるからです。 究極の価値を争う場合、どちらの価値も正当化できるので、政治家はどちらを選んでもいいという状況になります。 その意味で、政治哲学上の難題は、考えることがあほらしくなりますね。かえって恣意的な権力を呼び寄せるのですから。おそらくもっと重要な問題は、正解がないときに、そこで生まれる恣意的な権力をいかに抑止するかです。 この他、トロリー問題のバリエーションは、刺激的でした。 トロリー問題とは、五人を救うために、一人を犠牲にするような転轍機の操作が、倫理的に正当化できるかどうか、という問題です (97) 。 この問題のバリエーションが、まとめてリスト化されています (25) 。 例えば・・・   五人を救うために、四人を見捨てる。 100 人を救うために、一人を拷問する。( 99 人を拷問する、という例でもいいと思う。) 自国民を救うために、他国民を見捨てる。(具体的な人数も必要だと思う。)   このような例で、問題の答えを左右するのは、人数の比率です。五人を救うために一人を犠牲にすることができる、と考えた人でも、四人を犠牲にすることできないと考えるかもしれません。これは興味深いですね。 このような倫理的直観について、深く考える価値があります。あるいはまた、拷問やネイションをめぐる架空の問題について考えることは、私たちの倫理的な力を養うでしょう。