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■平等主義はなぜ望ましいのか

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田中将人『平等とは何か 運、格差、能力主義を問い直す』中公新書    田中将人さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。  先日、オンライン研究会で、本書の合評会を開催しました。押野健さんのコメントその他に対して、正面から真摯にお答えいただきました。ありがとうございました。  この本のなかに書かれていることですが、田中さんは田舎の学校で育って、保育所・小学校・中学校をともに過ごした同級生 30 人のうち、大学に進学したのはたったの 5 人だった、というのですね。私の場合、小学 6 年生のときに、私立の中学校を受験した人が 8 割くらいでした。ほとんど私立に行ってしまった。これは育つ場所でどれだけ格差が広がるかを、示しています。私の場合は、私立の中学校を受験しなかったのですけれども。  本書は、平等主義に関する最新の研究を、とても分かりやすく紹介しています。読者を引き込む力があります。  おそらく、最大の理論的・哲学的問題は、「平等主義はロールズの格差原理で擁護するのか」、それとも「この格差原理を修正するのか」、あるいは「格差原理に何か別のサブの原理を加えるのか」、だと思います。  ロールズの格差原理で正当化された社会は、必ずしも平等主義の社会ではありません。例えば、年収 900 万円の人を 700 万円の年収にして、 400 万円の人を 500 万円にするといった平等主義化は、ロールズの格差原理では正当化できません。では平等謝儀者は、このような格差是正を、どんな原理で正当化するのでしょうか。  私の考えは、私が『自由原理』で展開した「潜勢的可能性としてのケイパビリティ」概念によって基礎づけられる、というものです。 しかし、本書で議論されている最新の研究では、このような議論はないようですね。 富裕層に対しては、資本税と相続税を強く課すこと、そして貧困層には対しては、教育、職業訓練、労働交渉力、各種の経済的規制、などをうまく制度化することが提案されています。こうした政策がどのような理由で正当化されるのかは、たんに平等がいい、という理由だけでなく、なぜ平等がいいのかといえば、それは人々の潜在能力がいっそう発揮されるからでしょう。つまり現代の平等主義は、潜在能力という理念に基礎をおいているように見えます。  田中さんは「支...

■無知学が必要なワケ

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  鶴田想人 / 塚原東吾編『無知学への招待 〈知らないこと〉を問い直す』明石書店   鶴田想人さま、塚原東吾さま、執筆者の皆さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。  大竹弘二さんの論稿「民主主義と無知」は、ランシェールの議論を紹介しています。民主主義を実践するためには、民衆の一人一人が「知」を身につけて、議論に参加できなければなりません。そのためには教育が必要です。 しかし教育によって、知の優劣、不平等が生まれます。すると劣った人は、優秀な知をもった人の指導を受けなければなりません。しかしこれでは、劣った人はいつまでたってもその指導から解放されません。 ランシェールは、ここに問題があると考えます。民主主義を、「能力」や「資格」に基づいて行ってはならないというのですね。では能力の序列化を避けて、どうやってすぐれた民主主義の政治を行うことができるのか。ランシェールは結局、そのような民主主義は制度化できないのだから、社会運動のような序列のない民衆たちの集まりを重視しよう、というのですね。 しかしこうなると、制度としての民主主義をあきらめるのか、それとも社会運動で補うのか、という問題になります。制度論がない、ということでしょうか。  桑田学さんの論稿「経済学における「自然」の不可視化」は、 1870 年に起きた経済学の「限界革命」が、「有機経済(光合成のエネルギー)」から、「化石経済(石炭エネルギー)」への転換において生じたことを指摘しています。 これは歴史的にみて、興味深いです。有機経済(光合成のエネルギー)では、製造業は木炭に依存している。人間の労働力も、筋力(身体)とその再生産(食事と睡眠 ? )で説明できる。ところが化石経済(石炭エネルギー)になると、生態系にとって持続不可能なエネルギー消費になる。この持続不可能性こそ、まさに「無知学」の課題でしよう。 私たち人間は、経済学という「知」をもっているにもかかわらず、何が持続可能な消費なのか、これが分からないんですね。人類は、自らの持続可能な生態系について無知です。どうも石炭を用いるようになってから、私たちは自分たちのしていることが、いっそう分からなくなった。そのような時代に突入してしまったということです。

■リベラルな社会運動とは

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富永京子『なぜ社会は変わるのか はじめての社会運動論』講談社新書   富永京子さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   社会運動論の現在を伝える、すばらしい入門書だと思います。 本書は、社会運動論のはじめての新書だというのですね。画期的です。 「社会運動」という概念は、現在では、いろいろな意味で用いることができます。例えば、「再生利用可能な素材で作られたボールペン」です。これが「普及する背景には、どういった政治的機会と制度の変革があったのでしょうか。」 (234)  エコなボールペンの普及のために尽力した人たちは、社会を変える運動をしたのだというのですね。そして私たちは、エコなボールペンを使うとき、このボールペンが利用できるようになった背景に、いったい、どれだけの社会運動があったのかと想像力を逞しくする。そのような背景を「視る力」を養うことが、社会運動論を学ぶ意味だというのですね。これは説得的な説明です。  社会運動という言葉は、これまでさまざまな理論によって、さまざまに定義されてきました。自分に合った社会運動はどれなのか。それを知ることが必要です。本書は、この定義の問題を、最初にチャート式にまとめています。  例えば、「社会運動にはパッションが大事だ」という命題に、賛成か反対か。パッションはそれほど重要ではなく、しかし政治はたえず変化するのだから、それを睨んで何らかのアクションを起こす。そのような実践が、自分にとって利益になる人がいます。社会運動をすることには政治的・経済的な意味がある。そのように考える人がいます。 しかし、別の理由で社会運動をする人もいます。例えば、「集合的なアイデンティティ」や、「文化的な意味」、あるいは「自分とは異なる人たちと何かを共有する体験」を求めて運動する人がいます。  大切なのは、ミクロの視点をもつことですね。例えば、 X でツイートしたり、リツイートする。それだけで、その行為は社会運動とみなすことができる。このように社会運動を広く捉えると、私たちが日常生活でしていることの多くは、社会運動の一コマと言えるかもしれませんね。  第一章で紹介されているように、現在、社会運動でもっとも流通している定義は、   ①明確に特定された敵と対立関係にある。 ...

■ネオリベラリズムは最大の経済思想

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  下村晃平『ネオリベラリズム概念の系譜  1834-2022 』新曜社    下村晃平さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。  とてもすぐれた歴史研究、知識社会学の研究だと思います。熱量が違います。ネオリベラリズムという概念が、どのように語られてきたのか、その複雑な歴史と、キーパーソンたちの駆け引きが語られています。  おそらく「ネオリベラリズム」は、 20 世紀前半から 21 世紀前半にかけての、最大の経済思想といえるでしょう。そのように言えるのは、 21 世紀になってから、とりわけ 2010 年から 2020 年にかけて、この概念をめぐる研究が爆発的に増えたからであります。現時点で振り返ると、ネオリベラリズムこそが、私たちの時代の 100 年間を規定しているようにも見えます。 これは不思議です。思想としてみた場合、ネオリベラリズムの担い手は、ハイエクとフリードマンに代表されます。しかし二人が生きた時代の全盛期は、 1980 年代まででしょう。その後、ハイエクやフリードマンを超える、ネオリベラリズムの経済思想家は輩出されていません。  本書から学んだことは、ハイエクやフリードマンは、自身の立場をネオリベラリズムと自称した時期もあるけれども、それはほんのわずかな時期であった、しかもこの言葉は、二人の思想の中心的な部分を表していないのですね。これに対して 1980 年代に、米国で「ネオリベラリズム」を自ら自称した人は、民主党のなかの亜流の人たちだったのですね。「自称」を尊重して考えると、ネオリベラリズムとは、ハイエクやフリードマンの思想ではない、ということになります。  歴史を振り返ると、 20 世紀前半の段階で、ネオリベラリズムはケインズ主義を含んでいました。また、ドイツのオルドー学派(オイケンなど)を「ドイツ版ネオリベラリズム」と呼ぶとすれば、「社会的市場経済」という概念は、ネオリベラリズムから出てきたのですね。ネオリベラリズムの概念には幅がある。このことに注意が必要です。  おそらく、「古典的自由主義」の概念も、幅があると思います。この概念は 1930 年代ごろから用いられるようになったようですが、古典的自由主義の概念には、最初から介入主義の意味が含まれていたと思います。これとの対比で、自由放任主義が批判さ...

■顔が見えないと、私たちの「生」は搾取される

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山崎亮『面識経済 資本主義社会で人生を楽しむためのコミュニティ論』光文社    コミュニティ・デザイン、という仕事がある。地域に暮らす人たちが、自分たちの地域をどんなコミュニティにしたいのか、それを議論する場を作って、自治体の政策に結びつける仕事である。例えば、図書館や公園や美術館を作るとき、地域の人々が参加して、意見を交わしながら具体的なイメージを練り上げてく。著者は、そのような市民参加の活動をコーディネートする仕事をされているという。意外なことに、そのようなサポートの現場で「経済思想」が役に立つというのだ。  本書は、コミュニティ・デザインの観点からみた経済思想の入門書である。アダム・スミスからシューマッハーまで、さまざまな経済思想家たちの思想が紹介されている。この本のタイトルにあるように、著者の関心は、お互いに顔の見える経済社会を作ることにある。フェイス・トゥー・フェイス、つまり顔が見える社会。著者はこれを「面識社会」と呼ぶ。私たちが互いに深く知り合うのではなく、ある程度面識があるという「ゆるいつながり」のなかで、経済が回るような社会だ。  本書はこのような観点から、経済思想の古典を読み解いている。経済思想を「顔の見える経済」という観点から網羅的に紹介した点に、ユニークな点がある。 現代の資本主義社会において、それほど儲からなくても、いい経済生活を送っている人たちがいる。とはいっても本書の 247 頁にあるように、経営者の多くは「もっと儲けたい」、と思うのが性〔さが〕である。例えば、銀行からお金を借りて、飲食店を経営するとしよう。すると借金を返すことがまず課題となる。店の修繕費も積み立てねばならない。経営者は、客の健康には悪いと知りながらも、「糖質を使ったメニュー」を多くして儲けたりするだろう。しかし著者によれば、このような経営戦略に出る経営者には、客の顔が見えていないのだという。  もし客の顔が見えていれば、「今日は大盛りにしないほうがいいんじゃないですか ? 」とか、「今日はこれ以上飲んではいけませんよ」といった会話が成り立つはずだ。そのような会話が成立するなら、客にとっては健康にいいし、経営者にとっては常連客を掴むこともできよう。 乱暴に一般化することはできないが、いま、全国チェーンの店と個人経営の店があるとして、個人...

■モノが安すぎるから環境が破壊される

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  ラジ・バテル& ジェイソン・ W ・ムーア 『7つの安いモノから見る世界の歴史』福井昌子訳、作品社   作品社編集部、田中元貴さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    著者のラジ・バテルには、すでに邦訳『値段と価値』がある。 もう一人の著者、ジェイソン・ W ・ムーアにも、すでに邦訳『生命の網のなかの資本主義』がある。 いずれも、話題になった著作である。 今回訳されたのは、この二人の共著である。資本主義の歴史を、七つの安いモノという視点で見るという。とても興味深い内容である。 本書のいう「安いモノ」とは、自然、貨幣、労働、ケア、食料、エネルギー、および生命である。近代の資本主義経済は、これらを安い価格で売り買いして、環境を破壊してきた。しかも資本主義は、人びとを搾取してきた。 では、持続可能で、搾取のない社会を作るには、安いモノの価格を上げるべきなのかどうか。価格を上げるとして、その手段は? あるいはまた、外部不経済を考慮して価格を上げるとして、どうやって持続可能な経済を作っていくのか? さまざまな疑問がわいてくる。  「資本主義の歴史にはこういう問題がある」と指摘するとき、では「オルタナティヴは何か」という疑問が同時に浮かぶ。「あの時代に、もっとこうしておけば、人類はもっといい社会を作れたはずだ」という疑問がわく。しかし他方で、「本当に、そんなことはできたのか」という疑問も生じる。 資本主義の歴史を批判的に理解する際に、どんなオルタナティヴがありえたのかを明確にすることは、現在の私たちの社会を理解し、よりよい政策を考えるために重要であろう。私たちは「歴史」と「理想」を往復しながら、現代社会の問題を考えていく必要がある。 本書がすぐれているのは、歴史を読み解くための価値観点、すなわち私たちの「理想」社会への関心を、できるだけ明確にした点にある。その理想とは、搾取のない社会であり、持続可能な社会である。例えば、ケア労働を十分に評価した上で平等に分配する。あるいは、ケア労働を削減したり、ケア労働に対する補償を求めたりする。このような考え方である。  ただ実際には、ほとんど解決不可能な問題がある。農業の問題である。 21 世紀になって、農業と林業の分野は、温室効果ガス排出量の四...

■ウェルビーイングを測る指標にNPOの活動量を

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  山田鋭夫『ゆたかさをどう測るか ウェルビーイングの経済学』ちくま新書    山田鋭夫さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。 近年のウェルビイング論の重要な内容が、一通り紹介されています。そしてそのうえで、真の豊かさを実現するためには NPO の活動に期待したいというのですね。 これは、民主党の鳩山政権が「新しい公共」という理念で推進しようとした政策でもあります。私も賛成です。 NPO の担い手が、あらたなリベラルの担い手になっていく。 しかしこの点をウェルビイングの指標に加えることはできるでしょうか。 NPO に参加したことがあるかどうか、という意識調査になるでしょうか。本書で紹介されている、「ベターライフ・インデックス」のダッシュボードには、この NPO の指標がありません。国連はこのような指標を使っていない。 また、 NPO 活動がなぜ重要なのかを基礎づける際に、本書では「連帯経済」の理念が論じられていますが、不思議に思ったのは、この「連帯」ないし「相互扶助」の理念について、最近新たな議論を展開している思想家や理論家がいないということです。 山田鋭夫先生の訳で 2023 年に刊行された、ロベール・ボワイエ著『自治と連帯のエコノミー』(藤原書店)があります。この中で論じられている、連帯論の基本文献のリストが、本書『ゆたかさをどう測るか』に挙げられています (94) 。これをみると、ボワイエが参照した最新の文献が 1977 年刊で、そのひとつ前の文献が 1907 年刊ですね。しかもいずも、あまり知られた本ではありません。クロポトキンの『相互扶助論』のフランス語版は 1902 年に出ました。しかしその後、フランスでも新たな思想が展開されていないのでしょうか。 現代の NPO 活動を支える思想は、さまざまであってよいと思いますが、それにしても現代の規範理論の資源がほとんどない。思想面でも指標面でも、この NPO による「新しい公共性」を基礎づける学問は必要だと思いました。 この他、本書で長めに引用されている、スミスの『道徳感情論』の一節が、とても印象的です。その引用を受けて、山田先生は以下のように補っています。 「富を得れば幸福が得られると信じた若者が、肉体的精神的辛苦をいとわず、日夜の努力と勤勉によ...

■『六法』を読むな、『資本論』を読め

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  出口一雄 / 小石川裕介編『法学者たちと出版 戦後日本法学の知的プラットフォームをたどる』弘文堂   森元拓さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   本書所収のご高論、「法学メディアと「党派性」――『法律時報』と『ジュリスト』」を興味深く拝読しました。  法学界には『法律時報』と『ジュリスト』という、二つのメジャーな雑誌があります。 『法学時報』は、戦後、マルクス主義的、革新左派系の雑誌になった。 これに対して『ジュリスト』は、実務家のための実務的な雑誌として、戦後に創刊されたのですね。  『法律時報』は、法学界のコモンセンスを構築する同人誌になった。ということは、戦後の法学界の主流は、革新左派だった、ということですね。  その当時(戦後から 1980 年ごろまでか ? )は『六法全書』よりも、マルクスの『資本論』が優先された、というは興味深いです。  「潮見利隆は、大学院に入った際、指導教員の川島武宜 [1909-1992] から、一年間は六法を開くな、と言われたという。そして「六法全書の代わりに岩波の『日本資本主義発達史講座』 [1930] をこの一年間によく読め、それにもう一つ…『資本論』を読め、と言われた。」」 (179)  このように教育の現場で、何を読め、何を読むな、という指示でもって、弟子たちの思想形成を操作していたというのは、いまでは考えられないですね。しかしこうした読書の指導が、当時の革新左派の思想と運動を支えていた、というのは興味深い事実です。

■美徳でも悪徳でもない欲求とは

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バーナード・マンデヴィル『新訳 続・蜂の寓話 私悪は公益なり』鈴木信雄訳、日本経済評論社    鈴木信雄さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    本書は、マンデヴィルの『続・蜂の寓話』の新訳です。以前の翻訳も比較的新しい訳だったと思うのですが、さらに研究が進んで、 21 世紀にこのように新訳で読めるようになったことを、心よりお祝い申し上げます。  本書の訳者解説は、主としてマンデヴィルとアダム・スミスの比較に充てられています。明快で、情熱的な文章だと思いました。  スミスは、マンデヴィルの良質的な部分を継承した、といえるのですね。マンデヴィルは、個人にとっての悪徳(虚栄を求める欲望)が結果として公益につながる、と指摘しました。だから人間は悪徳人でかまわないし、悪徳を発揮したほうが、社会はかえってよくなる、と発想しました。マンデヴィルにとって、美徳を求める心は、腹黒いものだとされました。しかしスミスは、美徳への愛は、純粋に愛すべきものだというのですね。賞賛されたいとか、承認されたいという欲望は、腹黒いものではなく、すばらしい情欲であり、尊い情欲だ、というのですね。  正確に言えば、スミスは、賞賛欲や承認欲にはいろいろあって、虚栄心 = 悪徳によるものもあれば、美徳によるものもある、と考えました。マンデヴィルのように単純に悪徳だ、とみなしえないと考えたのですね。  すると、二つ検討すべき点があると思います。  一つは、悪徳に基づく賞賛欲・承認欲と、美徳に基づく賞賛欲・承認欲の、いずれを鼓舞した方が、社会はいっそう繁栄するのか、という問題です。スミスの『道徳感情論』を、『国富論』のテーマにつなげて読むと、どんな追加考察を得ることができるのか。  もう一つは、悪徳でも美徳でもない賞賛欲・承認欲というものがあるはずで、むしろそのような、「悪徳や美徳に還元されない人間の欲求」、あるいは人間を突き動かす動力こそ、社会の繁栄にとって重要なのではないか、という論点です。  私が拙著『自生化主義』その他で考察しているのは、この悪徳でも美徳でもない欲求についてです。これは従来の道徳論では、うまく主題化できていないようにみえます。このような観点から、マンデヴィルを読みなおしてみようと思いました。

■市場社会主義は可能か

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  松井暁『社会民主主義と社会主義』専修大学出版局   松井暁さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    社会民主主義の理念をもう一度評価直して、社会主義の思想的・政策的可能性を見出そうというのですね。現在の日本共産党やその他の社会主義・共産主義政党の立場を、現実的な観点から位置づけようとすれば、この本に書かれているような論理になるのではないか、と思いました。  総論として、マルクス主義、あるいはマルクス派が、一枚岩ではなく、結構、多様だということが分かりました。  マルクス派は、資本主義の形成期(日本では 20 世紀の後期を含む)には、経済成長が重要だと考え、労働を奨励し、国家による経済のコントロールが必要だと考え、経済ナショナリズムを推進してきました。しかし資本主義が成熟すると、マルクス派の一部は、「定常社会」を求めるようになる。背後には、経済成長社会の追求が現実的ではなくなったという認識があるのでしょう。またマルクス派の一部は、脱労働(自由時間の拡充)、国家の縮小、コスモポリタンな連帯(例えば航空税のような国際的な課税制度への賛同)、などを主張するようになります。  本書の立場も、一方では、資本主義の下で福祉国家を追求する道(社会民主主義)は、その役割を終えたという立場をとりながら、他方では、「市場社会主義」の理念を掲げ、計画経済へ移行しなければならない、としています。  その際の論点は、国家がすべての企業に対して、生産手段の社会的所有を法的に義務づけるかどうか、にあるのではないか。  例えば大学という組織は、その設備を社会的に所有して、そこで働く教員たちの労働を社会的に所有し、さらにその生産物たる学術的成果を公開する(オープンにする)ことによって、市場社会の条件の下で共産主義の理念にふさわしいことをいろいろ実現できているのだと思います。このような組織の在り方を拡張していけば、やがてすべての組織は社会主義的に運営できるかもしれない。ではそのための道筋をどのように描くのかですが、政策ビジョンを争うことが必要です。政策をめぐる論争のなかで、あらためてイデオロギーの真価が問われるのではないか、と思いました。  

■大塚久雄の本の中国語訳です

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周雨霏訳、中国語版、大塚久雄『共同体の基礎理論』上海文芸出版社   周雨霏さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。 大塚久雄の最もよく読まれている本の一つを、中国語に翻訳されたのですね。しかも今回の中国語訳は、意外なことに、初訳なのですね。日本で出版された同書と比べて、表紙のデザインがよいです。 出版を心よりお喜び申し上げます。中国人留学生の方々に、勧めたいと思います。

■重商主義と古典的自由主義の違いは微妙

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山本英子『グラスランの経済学  18 世紀における主観価値論の先駆者』早稲田大学出版部   山本英子さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   ジャン・ジョセフ・ルイ・グラスラン (1727-1790) 。正しい発音ではグララン。彼はフランスの経済学者で、アダム・スミスと同時代人ですね。亡くなった年が同じです。スミスの方が四歳年上でした。  グラスランは、ほとんど忘れ去られた経済学者ですが、職業は、ナントの総徴税官だったのですね。当時のフランスで支配的だった経済学説は、フィジオクラート(重農経済学)の理論でした。これに対してグラスランは、重商主義的な関税政策を提唱します。しかし実際には、グラスランが提案した関税は、土地だけでなく奢侈的な消費に対して課税するための手段であり、必ずしも一国ナショナリズム的な発想に基づいていないのですね。その意味では、重商主義というよりも、自由市場経済主義であり、ただ、どこに課税するかという問題ですね。グラスランは、あまり生産的ではないにもかかわらず奢侈な消費をしている貴族たちに課税することが、一国の富を増大させる、と発想したのですね。  この奢侈的な消費に対する消費税という発想は、グラスランが徴税の仕事を専門にしていたこともあって、実際に導入すれば機能したでしょう。非現実的だといった批判は当たりません。当時は、富裕層がどれだけの所得を得ているのかを把握することは、とても難しかった。しかし富裕層は、その地位にふさわしい消費(地位消費)をする。そうしないと、自分の社会的地位を維持することができないからです。そのような社会規範があった。だから、生命維持に必要な基本財には消費税を課さずに、奢侈財に対して消費税を課すことができたし、それが相応しかった。消費税を課しても、高い地位にある人たちは、自分の地位を維持するために「地位消費」を続けるからです。具体的に、奢侈財の原材料を輸入する際に、関税を課す、というのですね。  そしてこの課税で得た収入によって、国内の製造業を支援していく。これは、一見すると重商主義ですが、解釈の仕方によっては、自由市場経済のための消費税制度であり、スミスの場合も消費税に賛同していましたから、古典的自由主義として解釈できますね。  このように解釈してみると、重商主義と古典...

■北海道の戦後の馬取引は、ひどかった

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  松浦努『馬喰の流通経済学的研究 北海道蘭越町・八雲町・七飯町の事例を中心として』北海学園大学出版会   松浦努さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    本書は、敗戦後の北海道における「馬の市場取引」に関する、聞き取り調査に基づく研究です。馬の取引は、 1960 年前後をピークに流通したのですね。しかしいまはほとんど流通していない。戦後の馬取引の実態が、多くのインタビューから鮮やかに解明されています。経済史のすぐれた研究です。  研究の手法が徹底的であることにも感銘を受けましたが、何よりも、対象としている市場取引がとても興味深い。これは馬の売り買いの話なのですが、あまりにもひどい取引ですね。 馬を農家に売る、あるいは農家から買う商人を、「馬喰(ばくろう)」といいます。馬喰は、とてもひどい。たんに安く買って高く売るというだけでなく、これはもう、ほとんど農家の人たちをだまして儲けているわけです。市場経済がいかに非倫理的で、共同体の外部に存在していて、信用のならないものなのか、ということがよく分かります。 これはそれほど昔の話ではありません。戦後の話であり、現在の 70 代、 80 代の人たちが、実際に経験した取引であります。  経済学的には、この馬取引の市場は、農家と商人(馬喰)のあいだに、圧倒的な情報の非対称性があるという観点から説明されるでしょう。農家の人たちは、馬を見ても、それが病気なのかどうか、分からないで取引せざるを得ない。また農家の人たちは、馬を売るときに、馬がどれだけの市場価値をもつのか、分からないで売るしかない。とにかく情報が流通していない。非対称である。馬が病気で使えなくなるリスクを保障する仕組みもないわけです。  いずれにせよ、 1960 年代になると、しだいに近代農法が広まって、馬の代わりに、トラクターで農業をすることになります。しだいに馬は不要になります。 しかしそれ以前の農家の人たちは、馬を使って農耕していた。そして馬喰にだまされて馬を売買していた。これは、当時の市場経済が成熟していないことを示していますが、と同時に、市場経済を克服する社会主義経済の理想が、当時においてなぜ魅力的にみえたかを説明するように思います。  蘭越町の馬の飼養頭数の推移をみると、 18...

■日本の福祉政策の基礎を築いた思想とは

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  西沢保『福田徳三とその時代』信山社 西沢保さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   大正後半から昭和の初頭にかけての時代は、しばしば「一橋(大学)の黄金時代」と言われるのですね。その中心にいたのが、リベラリストである福田徳三や上田貞次郎でした。 上田定次郎は、『新自由主義』という分厚い本を書いています。福田も上田も、当時のマルクス主義に反対して、新自由主義の立場に立ち、経済政策を論じました。もっとも当時の「新自由主義」の意味は、今日の意味とはやや異なります。何が異なるのかについては、検討に値するでしょう。  福田徳三は、 1930 (昭和 5) 年に、 55 歳の生涯を閉じました。それまでに、単行本 37 冊、全集 l 部を著し、定期刊行物や論集や辞書等に掲載された論稿は、約 300 篇でした。これは偉業です。 では福田は、私たちに何を残したのでしょうか。  学説史的にみると、福田は、ラスキン、ホブソン、アントン・メンガーの三人に影響を受けている。では福田は、この三人とは異なるオリジナルな経済思想を構築したのかどうか。  本書を読むかぎりでは、福田は、ラスキンやホブソンに影響を受けたけれども、そこから新しい思想を展開したわけではないようではないですね。  他方で福田は、アントン・メンガーの影響を受けていますが、アントン・メンガーを越えて、労働契約を「労働協約」に格上げすることを主張する。私法レベルでの労働契約ではなく、社会政策レベルでの労働協約にすべきであるというのですね。具体的に、治安警察法第 17 条の廃止、労働団結権、同盟罷工権、労働組合法案、 ILO ・国際労働保護法制の実施(失業問題を含む)などを提唱します。  こうした社会政策について福田が論じるとき、福田は、メンガーの次の世代のドイツの法学者、ジンツハイマー (Hugo Sinzheimer) の『労働協約論』 (1907-1908) を参照しているのですね。福田の言っていることは、やはりドイツの最先端の学問を下敷きにしているようですね。ここら辺は、さらに検討に値すると思いました。  福田は、学者としては「超」がつく秀才であるけれども、思想家としては、二流にみえます。しかし驚くべきは、福田は先見の明があって、日本で自由主義的...

■倫理経済の観点から経済思想史を振り返る

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    ジェイコブ・ソール『〈自由市場〉の世界史 キケロからフリードマンまで』北村京子訳、作品社    作品社編集部さま、ご恵存賜りありがとうございました。  以下、「シノドス・ライブラリー」 https://synodos.jp/library/29498/ に寄せた書評を、こちらのブログにも掲載します。    自由市場を擁護する議論は、アダム・スミスよりもはるか以前の古代ローマ時代にもあった。例えば前 1 世紀を生きたキケロは、自由市場を擁護して農地への課税に反対した。政府が介入して統治するよりも、貴族が農民に節度と美徳をもって対応することが重要と考えた。キケロのこの立場は、現代の文脈では、美徳によって市場経済を統治する「新保守主義」と言えるだろう。 本書は、キケロからフリードマンまでの思想史を、コンパクトにまとめた良書である。とくに興味深いのは、 17-18 世紀のフランスを生きたボアギュベールの思想だ。彼は農業こそ、自由な市場社会における富の源泉と考えた。農民への減税と、富裕層への増税を訴えた。貧しい人たちの税負担を減らして市場を活性化し、生産的ではないが豊かに暮らしている人には重い税を課して、その富を再分配する。そのような美徳のある政策こそ、自由な市場経済を活性化するとした。 私たちは、「市場経済は不安定だから政府介入が必要になる」と考える必要はない。むしろ「市場経済を活性化するためには、倫理が必要」と発想してはどうだろうか。市場経済の歴史を独自の観点で読み解いた本書は、経済思想の入門書としてもおススメだ。    このように、「倫理経済」「新保守主義」の観点から経済思想史を振り返るというのは、現代の経済思想研究の一つの潮流ですね。