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■人口が半減する社会を想像しよう

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遠藤薫編『人口縮小 ! どうする日本 ?  持続可能な幸福社会へのアプローチ』東京大学出版会 遠藤薫さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。  ローマクラブが 1972 年に発表した報告書「成長の限界」は、 21 世紀の中盤に、世界人口が急激に増えて、その後、いっきに減少するという予測でした。そのような局面で起きることは、粗死亡率の急激な上昇と、同時に、粗出生率の急激な上昇だと考えられました。食糧危機のため、人々が死んでいく。そしてその死亡を補完するかのように、出生率が急上昇する。たくさん生まれて、たくさん死んでいくというシナリオだったのですね。  明治維新 (1868) の頃の日本の人口は、 3300 万人でした。 2100 年には 6000 万人程度になると予想されていますが、その後は、その半分、つまり明治維新の段階に戻ることも視野に入れないといけませんね。  いま、日本の出生率を上げるために考えるべきことは、家族主義の呪縛です。 現在、比較的少子化に歯止めがかかっている北欧諸国では、婚外出生率が50%前後です。ところが日本や韓国は、このような婚外子が、極端に少ない。結婚による家族形成を前提としないと、子どもを産むことが難しい。そのような倫理的制約が、厳しい少子化を招いている可能性があります。  女性が家庭に留まる家族主義のほうが、少子化に苦しんでいる。反対に、男女共に働く社会の方が、少子化に歯止めがかかっている。だから日本は、家族主義的な制度を解体して、男女共働きで子供を産み育てる社会にしていくべきだ、ということですね。  

■課税制度と企業行動の関係について

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櫻田譲『租税と企業行動』税務経理協会   櫻田譲さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   まずこの本の表紙と裏表紙の写真がいいですね。表紙は、ネオワイズ彗星、裏表紙は、北大のポプラ並木を前景とした星の動き(とくに北斗七星)です。いずれも櫻田先生が撮影したのですね。すばらしい作品です。  彗星を撮影するときに、カメラに内蔵されているアストロレーサーによって、対象を自動追尾することができるのですね。それでこのような美しい写真が撮れるとは、いいですね。  そしてこの本の最後に、彗星の話が出てきます。ネオワイズ彗星が今度地球に接近するときは 5,000 年後です。そのときの会計や税のシステムに思いをはせるというのは、ロマンがありますね。研究というのは、まさにこのような時間の流れのなかで進みます。 5,000 年後を展望する。このような感覚は、櫻田先生の研究のスタイルにも表れているでしょう。  本書の内容についてコメントします。  一般に、研究開発費を増額すれば、そしてその比率を増やせば、企業は長期的に成長するだろうと言われます。しかし研究開発費の比率が高すぎると、投資家はかえって悲観的になるでしょう。反対に、この比率が低いと、投資家たちは、今後はその比率が高くなると期待できる、と楽観するかもしれません。本書の第一章は、そのような仮説を実証しています。  興味深いのは、企業の研究開発比率が高くなるのは、借入金が少ない場合だ、ということです。他方で、取締役会の構成メンバーの平均年齢が高くなると、研究開発費が上昇するのですね。より長期的な観点から会社の将来を考えることができるようになる、ということですね。  「ふるさと納税」については、納税する人の関心が、しだいに子育て支援や災害復興支援から遠ざかってきた、ということが実証されています。 私は昨年、「ふるさと納税 2.0 」という論稿を、『税務弘報』 (2024.11.) に寄せました。ふるさと納税は、子育て支援という目的をもった方向に、制度全体を修正していくべきだ、と考えています。 すでに子育て支援のための施設を十分に作った自治体は多いと思いますが、今後は例えば、教育クーポン制度(塾への補助)を導入するための資源として、ふるさと納税を位置づけることもでき...

■ウクライナ戦争の本質はプーチンの自己保身

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    井上達夫『悪が勝つのか?――ウクライナ、パレスチナ、そして世界の未来のために』信山社 井上達夫さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    本書はウクライナ戦争について、正しい見方を示していると思います。第一章の扉で、ウクライナ外務大臣クレーバの言葉からの引用があります。「持続的で耐久性のある平和は、ロシアが戦場で大敗北を喫した後にはじめて可能になる」と。  そうなのだと思います。  この戦争は、西側に非があるのではなく、プーチンの自己保身戦争である。プーチンにすべての非がある。だから西側は、ウクライナを全面的に支援すべきであり、どこかで妥協して和平に持ち込むならば、今後、同じような戦争を仕掛けてくる国が現れるだろう。すると世界は、もっと平和から遠ざかるだろう。そのように推測することが正しいと思います。  最近、西谷修著『戦争と西洋 西側の「正義」とは何か』筑摩叢書が刊行されました。私は書評する機会を得たのですが、西谷先生は、西側が強く出すぎていると言って、西側諸国を牽制します。井上先生とは正反対の見方です。  この間、興味深いのは、ハーバーマスの見解です。 本書で井上先生は、徹底的にハーバーマスを批判しています。ハーバーマスは、八方美人な見解を示すのですね。ロシアに譲歩して和平を達成すべきだけれども、ウクライナは自国の領土をロシアに割譲すべきではないと。しかしどうすれば、そのような理想的な和平案を示すことができるでしょうか。  誰もそのような和平案を思いつくことができない。そのような和平案は存在しない。ウクライナがロシアに領土を割譲しないのであれば、私たちは、徹底的にロシアに圧力をかけざるを得ません。  かりにロシアに対して、ウクライナの四つの州のすべてを割譲しても、ロシアは戦争をやめないでしょう。プーチンは保身のために、戦争を継続する十分な理由がある、と考える方が正しいでしょう。  とても説得力のある見方だと思います。

■嶋津格先生の二著、刊行されました

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嶋津格『経済的人間と規範意識――法学と経済学のすきまは埋められるか』『法・国家・知の問題』信山社   嶋津格さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    ご高著二冊の同時刊行、おめでとうございます。 いずれも論文集であり、嶋津先生のこれまでの研究人生を、鳥瞰できるようになっています。一冊目は、『経済的人間と規範意識――法学と経済学のすきまは埋められるか』。二冊目は、『法・国家・知の問題』です。  一冊目の「序にかえて――ハイエクに至るまでの思想遍歴など」では、嶋津先生が 19 歳のときからの研究人生が回顧されています。とても興味深く拝読しました。  「現在 75 歳、自分の学者人生全体の意味を意識する歳になった。」という一文から始まります。最初にケルゼンの影響を受けて、学部生のときには一学期のみ、米国の大学に留学されたのですね。それから、当時まだ社会主義の国だった東ヨーロッパなどを旅して、社会主義の思想に影響を受けたのですね。 その後、嶋津先生がマルクス主義を放棄するきっかけとなったのは、アイザック・ドイチャーのトロツキー三部作を和訳で読んだことだったのですね。スターリン批判を通じて、マルクス主義者であった自分の考えが変化していったと。スターリンの問題は、スターリンだけの問題ではない、マルクス主義の本質的な問題である、ということを理解されたのですね。  そしてそこから、嶋津先生はハイエクの研究に従事されます。ケルゼン、マルクス、ハイエク、という思想遍歴をたどって、そして現在は、グローバリズムよりも、ナショナリズムに関心があるのだと。 「この間の自分の思想遍歴を振り返って感じるのは、私は自分の思想を壊してゆくことを好むらしい、という点である。」と記しています。  なるほど、これが嶋津先生の基調にある思想的スタイルなのですね。 ナショナリズムの問題は、国際的にみて、すべての国がリベラルな国になる必要はなく、それぞれの国は、自律した判断で国を運営してよい、そのような自律的判断を互いに尊重するような国際的枠組みを作ろう、ということですね。  その一方で、嶋津先生は、米国が表現の自由(批判的言論の自由)を実現している奇跡の国であると評価しています。米国は、表現の自由を捨ててはならない。ラテンアメリカの一...

■ウェッブ夫妻『消費組合運動』の影響力

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内務省研究会編『内務省 近代日本に君臨した巨大官庁』講談社現代新書   白木澤涼子さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    明治 6 年 (1873) から 1947 年まで続いた内務省を、徹底的に明らかにしようという本です。内務省の仕事を、現在の政府の部門に置き換えてみると、旧自治省(総務省の一部)、都道府県知事、警察庁、消防庁、旧運輸省(国土交通省の一部)、旧厚生省(厚生労働省の一部)、・・・などです。さまざまな仕事を、一つの省でこなしていたのですね。  その意味で内務省の発展は、近代日本の行政の発展でもあります。  興味深いエピソードは、 1906 年に結成された報徳会の機関誌『斯民〔しみん〕』が、 1946 年まで 40 年間続くのですが、この雑誌は「国家に貢献すべき精神」を育むことを狙いとしていたのですね。といっても、精神的なことばかりではなく、この雑誌には「海外の自治資料」を伝えるコーナーがありました。そのコーナーの執筆を担当した人(複数かもしれない)のペンネームは、イギリスの経済学者、シドニー・ウェッブの名前を日本語でもじって、「人見植夫(ひとみ・うえお)」とされたのですね。  実際、内務省の要人、安井英二と三好重夫は、ウェッブ夫妻の『消費組合運動』に影響を受けていたのですね。強制的な消費者組合である「市町村会」が、教育、衛星、水道、ガス、電気などの消費を、ナショナル・ミニマムの公共事業として提供すべきだ、という考え方なのですね。 1925 年に邦訳されたウェッブ夫妻の『消費組合運動』は、日本で重要な意味を持っていたことが分かりました。

■リベラリズムは国境移動を正当化する

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浦山聖子『国際移動の正義 リベラリズムと入国在留管理』弘文堂   浦山聖子さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   リベラリズムの観点から、移民の問題を本格的に論じています。とくに第九章「気候移住者の受け入れ義務」は、刺激的でした。 この本の最初に、次のような例が出てきます。 米国人のケンは、デジタル・ノマドです。タイであれどこであれ、自由に働くことができます。 これに対してシリア出身のハーシムは、ゴムボートで、エジプトからヨーロッパに不法移民として向かいます。自由に働くことができません。 どうしてこのような境遇の差が生まれるのでしょうか。そしてまた、このような不当な境遇の差は、許されるのでしょうか。  リベラルな観点からすれば、ケンもハーシムも、自由に国境を移動できることが望ましい。もちろん移動に際して、一定の制約があることは認めるとして、しかしできるだけ不公平な扱いを減らしていく。そのための論理を考える、ということですね。  そもそも、リベラリズムはなぜ、国境を移動する自由を認めるのでしょう。 その論理として、本書は、井上達夫の文章を引用するかたちで、正当化しています (49) 。しかしこの井上先生の議論は、とくに論理的に全面展開されているわけではなく、さらっと述べられているので、いろいろと疑問がわいてきます。  まず、消極的移動の自由と積極的移動の自由の区別ですが、これは「ある国を離れる消極的自由」と「ある国が移民を積極的に受け入れる自由」の区別です。 これは各国政府が、離れる自由(消極的自由)をどの程度認めているか、そして、入国する自由をどの程度認めているか、ということですね。政府側の事情の区別です。 この区別の他に、移動する当事者の側の事情に即して、「身の危険があるがゆえに自国を離れざるを得ない」ケースと、「冒険のため、自己実現のために積極的に出国したい」ケースを分けるべきだと思いました。  消極的な移動の自由は、当事者に即して言えば、危険回避と冒険願望に分かれます。積極的な移動の自由(受け入れる自由)も同様に、当事者に即して危険回避した人の受け入れと、冒険願望を持った人の受け入れに分かれます。リベラリズムが移動の自由を正当化する場合、どの自由をどのように擁護するのか。...

■政治哲学の難問は、恣意的な権力を呼び寄せる

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松元雅和『政治哲学講義 悪さ加減をどう選ぶか』中公新書   松元雅和さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   とてもウィットに富んでいます。現代の政治哲学を前に進めています。 副題は、「悪さ加減をどう選ぶか」ですが、これは功利主義的にみて、社会全体の効用が下がらないように工夫する、ということだと思います。 しかし功利主義的に考えることが難しい場合があります。集計すべき効用が争われる場合や、集計の仕方が争われる場合です。そのような場合、一定の価値観点が必要ですね。 しかし価値観点が争われる場合、しかも、その争いが究極的な壁にぶち当たる場合は恐ろしい。哲学的にみて「価値の争い」を決着できないとき、政治家は恣意的な権力行使を正当化できるからです。 究極の価値を争う場合、どちらの価値も正当化できるので、政治家はどちらを選んでもいいという状況になります。 その意味で、政治哲学上の難題は、考えることがあほらしくなりますね。かえって恣意的な権力を呼び寄せるのですから。おそらくもっと重要な問題は、正解がないときに、そこで生まれる恣意的な権力をいかに抑止するかです。 この他、トロリー問題のバリエーションは、刺激的でした。 トロリー問題とは、五人を救うために、一人を犠牲にするような転轍機の操作が、倫理的に正当化できるかどうか、という問題です (97) 。 この問題のバリエーションが、まとめてリスト化されています (25) 。 例えば・・・   五人を救うために、四人を見捨てる。 100 人を救うために、一人を拷問する。( 99 人を拷問する、という例でもいいと思う。) 自国民を救うために、他国民を見捨てる。(具体的な人数も必要だと思う。)   このような例で、問題の答えを左右するのは、人数の比率です。五人を救うために一人を犠牲にすることができる、と考えた人でも、四人を犠牲にすることできないと考えるかもしれません。これは興味深いですね。 このような倫理的直観について、深く考える価値があります。あるいはまた、拷問やネイションをめぐる架空の問題について考えることは、私たちの倫理的な力を養うでしょう。  

■平等主義はなぜ望ましいのか

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田中将人『平等とは何か 運、格差、能力主義を問い直す』中公新書    田中将人さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。  先日、オンライン研究会で、本書の合評会を開催しました。押野健さんのコメントその他に対して、正面から真摯にお答えいただきました。ありがとうございました。  この本のなかに書かれていることですが、田中さんは田舎の学校で育って、保育所・小学校・中学校をともに過ごした同級生 30 人のうち、大学に進学したのはたったの 5 人だった、というのですね。私の場合、小学 6 年生のときに、私立の中学校を受験した人が 8 割くらいでした。ほとんど私立に行ってしまった。これは育つ場所でどれだけ格差が広がるかを、示しています。私の場合は、私立の中学校を受験しなかったのですけれども。  本書は、平等主義に関する最新の研究を、とても分かりやすく紹介しています。読者を引き込む力があります。  おそらく、最大の理論的・哲学的問題は、「平等主義はロールズの格差原理で擁護するのか」、それとも「この格差原理を修正するのか」、あるいは「格差原理に何か別のサブの原理を加えるのか」、だと思います。  ロールズの格差原理で正当化された社会は、必ずしも平等主義の社会ではありません。例えば、年収 900 万円の人を 700 万円の年収にして、 400 万円の人を 500 万円にするといった平等主義化は、ロールズの格差原理では正当化できません。では平等謝儀者は、このような格差是正を、どんな原理で正当化するのでしょうか。  私の考えは、私が『自由原理』で展開した「潜勢的可能性としてのケイパビリティ」概念によって基礎づけられる、というものです。 しかし、本書で議論されている最新の研究では、このような議論はないようですね。 富裕層に対しては、資本税と相続税を強く課すこと、そして貧困層には対しては、教育、職業訓練、労働交渉力、各種の経済的規制、などをうまく制度化することが提案されています。こうした政策がどのような理由で正当化されるのかは、たんに平等がいい、という理由だけでなく、なぜ平等がいいのかといえば、それは人々の潜在能力がいっそう発揮されるからでしょう。つまり現代の平等主義は、潜在能力という理念に基礎をおいているように見えます。  田中さんは「支...

■無知学が必要なワケ

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  鶴田想人 / 塚原東吾編『無知学への招待 〈知らないこと〉を問い直す』明石書店   鶴田想人さま、塚原東吾さま、執筆者の皆さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。  大竹弘二さんの論稿「民主主義と無知」は、ランシェールの議論を紹介しています。民主主義を実践するためには、民衆の一人一人が「知」を身につけて、議論に参加できなければなりません。そのためには教育が必要です。 しかし教育によって、知の優劣、不平等が生まれます。すると劣った人は、優秀な知をもった人の指導を受けなければなりません。しかしこれでは、劣った人はいつまでたってもその指導から解放されません。 ランシェールは、ここに問題があると考えます。民主主義を、「能力」や「資格」に基づいて行ってはならないというのですね。では能力の序列化を避けて、どうやってすぐれた民主主義の政治を行うことができるのか。ランシェールは結局、そのような民主主義は制度化できないのだから、社会運動のような序列のない民衆たちの集まりを重視しよう、というのですね。 しかしこうなると、制度としての民主主義をあきらめるのか、それとも社会運動で補うのか、という問題になります。制度論がない、ということでしょうか。  桑田学さんの論稿「経済学における「自然」の不可視化」は、 1870 年に起きた経済学の「限界革命」が、「有機経済(光合成のエネルギー)」から、「化石経済(石炭エネルギー)」への転換において生じたことを指摘しています。 これは歴史的にみて、興味深いです。有機経済(光合成のエネルギー)では、製造業は木炭に依存している。人間の労働力も、筋力(身体)とその再生産(食事と睡眠 ? )で説明できる。ところが化石経済(石炭エネルギー)になると、生態系にとって持続不可能なエネルギー消費になる。この持続不可能性こそ、まさに「無知学」の課題でしよう。 私たち人間は、経済学という「知」をもっているにもかかわらず、何が持続可能な消費なのか、これが分からないんですね。人類は、自らの持続可能な生態系について無知です。どうも石炭を用いるようになってから、私たちは自分たちのしていることが、いっそう分からなくなった。そのような時代に突入してしまったということです。

■リベラルな社会運動とは

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富永京子『なぜ社会は変わるのか はじめての社会運動論』講談社新書   富永京子さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   社会運動論の現在を伝える、すばらしい入門書だと思います。 本書は、社会運動論のはじめての新書だというのですね。画期的です。 「社会運動」という概念は、現在では、いろいろな意味で用いることができます。例えば、「再生利用可能な素材で作られたボールペン」です。これが「普及する背景には、どういった政治的機会と制度の変革があったのでしょうか。」 (234)  エコなボールペンの普及のために尽力した人たちは、社会を変える運動をしたのだというのですね。そして私たちは、エコなボールペンを使うとき、このボールペンが利用できるようになった背景に、いったい、どれだけの社会運動があったのかと想像力を逞しくする。そのような背景を「視る力」を養うことが、社会運動論を学ぶ意味だというのですね。これは説得的な説明です。  社会運動という言葉は、これまでさまざまな理論によって、さまざまに定義されてきました。自分に合った社会運動はどれなのか。それを知ることが必要です。本書は、この定義の問題を、最初にチャート式にまとめています。  例えば、「社会運動にはパッションが大事だ」という命題に、賛成か反対か。パッションはそれほど重要ではなく、しかし政治はたえず変化するのだから、それを睨んで何らかのアクションを起こす。そのような実践が、自分にとって利益になる人がいます。社会運動をすることには政治的・経済的な意味がある。そのように考える人がいます。 しかし、別の理由で社会運動をする人もいます。例えば、「集合的なアイデンティティ」や、「文化的な意味」、あるいは「自分とは異なる人たちと何かを共有する体験」を求めて運動する人がいます。  大切なのは、ミクロの視点をもつことですね。例えば、 X でツイートしたり、リツイートする。それだけで、その行為は社会運動とみなすことができる。このように社会運動を広く捉えると、私たちが日常生活でしていることの多くは、社会運動の一コマと言えるかもしれませんね。  第一章で紹介されているように、現在、社会運動でもっとも流通している定義は、   ①明確に特定された敵と対立関係にある。 ...

■ネオリベラリズムは最大の経済思想

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  下村晃平『ネオリベラリズム概念の系譜  1834-2022 』新曜社    下村晃平さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。  とてもすぐれた歴史研究、知識社会学の研究だと思います。熱量が違います。ネオリベラリズムという概念が、どのように語られてきたのか、その複雑な歴史と、キーパーソンたちの駆け引きが語られています。  おそらく「ネオリベラリズム」は、 20 世紀前半から 21 世紀前半にかけての、最大の経済思想といえるでしょう。そのように言えるのは、 21 世紀になってから、とりわけ 2010 年から 2020 年にかけて、この概念をめぐる研究が爆発的に増えたからであります。現時点で振り返ると、ネオリベラリズムこそが、私たちの時代の 100 年間を規定しているようにも見えます。 これは不思議です。思想としてみた場合、ネオリベラリズムの担い手は、ハイエクとフリードマンに代表されます。しかし二人が生きた時代の全盛期は、 1980 年代まででしょう。その後、ハイエクやフリードマンを超える、ネオリベラリズムの経済思想家は輩出されていません。  本書から学んだことは、ハイエクやフリードマンは、自身の立場をネオリベラリズムと自称した時期もあるけれども、それはほんのわずかな時期であった、しかもこの言葉は、二人の思想の中心的な部分を表していないのですね。これに対して 1980 年代に、米国で「ネオリベラリズム」を自ら自称した人は、民主党のなかの亜流の人たちだったのですね。「自称」を尊重して考えると、ネオリベラリズムとは、ハイエクやフリードマンの思想ではない、ということになります。  歴史を振り返ると、 20 世紀前半の段階で、ネオリベラリズムはケインズ主義を含んでいました。また、ドイツのオルドー学派(オイケンなど)を「ドイツ版ネオリベラリズム」と呼ぶとすれば、「社会的市場経済」という概念は、ネオリベラリズムから出てきたのですね。ネオリベラリズムの概念には幅がある。このことに注意が必要です。  おそらく、「古典的自由主義」の概念も、幅があると思います。この概念は 1930 年代ごろから用いられるようになったようですが、古典的自由主義の概念には、最初から介入主義の意味が含まれていたと思います。これとの対比で、自由放任主義が批判さ...

■顔が見えないと、私たちの「生」は搾取される

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山崎亮『面識経済 資本主義社会で人生を楽しむためのコミュニティ論』光文社    コミュニティ・デザイン、という仕事がある。地域に暮らす人たちが、自分たちの地域をどんなコミュニティにしたいのか、それを議論する場を作って、自治体の政策に結びつける仕事である。例えば、図書館や公園や美術館を作るとき、地域の人々が参加して、意見を交わしながら具体的なイメージを練り上げてく。著者は、そのような市民参加の活動をコーディネートする仕事をされているという。意外なことに、そのようなサポートの現場で「経済思想」が役に立つというのだ。  本書は、コミュニティ・デザインの観点からみた経済思想の入門書である。アダム・スミスからシューマッハーまで、さまざまな経済思想家たちの思想が紹介されている。この本のタイトルにあるように、著者の関心は、お互いに顔の見える経済社会を作ることにある。フェイス・トゥー・フェイス、つまり顔が見える社会。著者はこれを「面識社会」と呼ぶ。私たちが互いに深く知り合うのではなく、ある程度面識があるという「ゆるいつながり」のなかで、経済が回るような社会だ。  本書はこのような観点から、経済思想の古典を読み解いている。経済思想を「顔の見える経済」という観点から網羅的に紹介した点に、ユニークな点がある。 現代の資本主義社会において、それほど儲からなくても、いい経済生活を送っている人たちがいる。とはいっても本書の 247 頁にあるように、経営者の多くは「もっと儲けたい」、と思うのが性〔さが〕である。例えば、銀行からお金を借りて、飲食店を経営するとしよう。すると借金を返すことがまず課題となる。店の修繕費も積み立てねばならない。経営者は、客の健康には悪いと知りながらも、「糖質を使ったメニュー」を多くして儲けたりするだろう。しかし著者によれば、このような経営戦略に出る経営者には、客の顔が見えていないのだという。  もし客の顔が見えていれば、「今日は大盛りにしないほうがいいんじゃないですか ? 」とか、「今日はこれ以上飲んではいけませんよ」といった会話が成り立つはずだ。そのような会話が成立するなら、客にとっては健康にいいし、経営者にとっては常連客を掴むこともできよう。 乱暴に一般化することはできないが、いま、全国チェーンの店と個人経営の店があるとして、個人...

■モノが安すぎるから環境が破壊される

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  ラジ・バテル& ジェイソン・ W ・ムーア 『7つの安いモノから見る世界の歴史』福井昌子訳、作品社   作品社編集部、田中元貴さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    著者のラジ・バテルには、すでに邦訳『値段と価値』がある。 もう一人の著者、ジェイソン・ W ・ムーアにも、すでに邦訳『生命の網のなかの資本主義』がある。 いずれも、話題になった著作である。 今回訳されたのは、この二人の共著である。資本主義の歴史を、七つの安いモノという視点で見るという。とても興味深い内容である。 本書のいう「安いモノ」とは、自然、貨幣、労働、ケア、食料、エネルギー、および生命である。近代の資本主義経済は、これらを安い価格で売り買いして、環境を破壊してきた。しかも資本主義は、人びとを搾取してきた。 では、持続可能で、搾取のない社会を作るには、安いモノの価格を上げるべきなのかどうか。価格を上げるとして、その手段は? あるいはまた、外部不経済を考慮して価格を上げるとして、どうやって持続可能な経済を作っていくのか? さまざまな疑問がわいてくる。  「資本主義の歴史にはこういう問題がある」と指摘するとき、では「オルタナティヴは何か」という疑問が同時に浮かぶ。「あの時代に、もっとこうしておけば、人類はもっといい社会を作れたはずだ」という疑問がわく。しかし他方で、「本当に、そんなことはできたのか」という疑問も生じる。 資本主義の歴史を批判的に理解する際に、どんなオルタナティヴがありえたのかを明確にすることは、現在の私たちの社会を理解し、よりよい政策を考えるために重要であろう。私たちは「歴史」と「理想」を往復しながら、現代社会の問題を考えていく必要がある。 本書がすぐれているのは、歴史を読み解くための価値観点、すなわち私たちの「理想」社会への関心を、できるだけ明確にした点にある。その理想とは、搾取のない社会であり、持続可能な社会である。例えば、ケア労働を十分に評価した上で平等に分配する。あるいは、ケア労働を削減したり、ケア労働に対する補償を求めたりする。このような考え方である。  ただ実際には、ほとんど解決不可能な問題がある。農業の問題である。 21 世紀になって、農業と林業の分野は、温室効果ガス排出量の四...

■ウェルビーイングを測る指標にNPOの活動量を

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  山田鋭夫『ゆたかさをどう測るか ウェルビーイングの経済学』ちくま新書    山田鋭夫さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。 近年のウェルビイング論の重要な内容が、一通り紹介されています。そしてそのうえで、真の豊かさを実現するためには NPO の活動に期待したいというのですね。 これは、民主党の鳩山政権が「新しい公共」という理念で推進しようとした政策でもあります。私も賛成です。 NPO の担い手が、あらたなリベラルの担い手になっていく。 しかしこの点をウェルビイングの指標に加えることはできるでしょうか。 NPO に参加したことがあるかどうか、という意識調査になるでしょうか。本書で紹介されている、「ベターライフ・インデックス」のダッシュボードには、この NPO の指標がありません。国連はこのような指標を使っていない。 また、 NPO 活動がなぜ重要なのかを基礎づける際に、本書では「連帯経済」の理念が論じられていますが、不思議に思ったのは、この「連帯」ないし「相互扶助」の理念について、最近新たな議論を展開している思想家や理論家がいないということです。 山田鋭夫先生の訳で 2023 年に刊行された、ロベール・ボワイエ著『自治と連帯のエコノミー』(藤原書店)があります。この中で論じられている、連帯論の基本文献のリストが、本書『ゆたかさをどう測るか』に挙げられています (94) 。これをみると、ボワイエが参照した最新の文献が 1977 年刊で、そのひとつ前の文献が 1907 年刊ですね。しかもいずも、あまり知られた本ではありません。クロポトキンの『相互扶助論』のフランス語版は 1902 年に出ました。しかしその後、フランスでも新たな思想が展開されていないのでしょうか。 現代の NPO 活動を支える思想は、さまざまであってよいと思いますが、それにしても現代の規範理論の資源がほとんどない。思想面でも指標面でも、この NPO による「新しい公共性」を基礎づける学問は必要だと思いました。 この他、本書で長めに引用されている、スミスの『道徳感情論』の一節が、とても印象的です。その引用を受けて、山田先生は以下のように補っています。 「富を得れば幸福が得られると信じた若者が、肉体的精神的辛苦をいとわず、日夜の努力と勤勉によ...

■『六法』を読むな、『資本論』を読め

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  出口一雄 / 小石川裕介編『法学者たちと出版 戦後日本法学の知的プラットフォームをたどる』弘文堂   森元拓さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   本書所収のご高論、「法学メディアと「党派性」――『法律時報』と『ジュリスト』」を興味深く拝読しました。  法学界には『法律時報』と『ジュリスト』という、二つのメジャーな雑誌があります。 『法学時報』は、戦後、マルクス主義的、革新左派系の雑誌になった。 これに対して『ジュリスト』は、実務家のための実務的な雑誌として、戦後に創刊されたのですね。  『法律時報』は、法学界のコモンセンスを構築する同人誌になった。ということは、戦後の法学界の主流は、革新左派だった、ということですね。  その当時(戦後から 1980 年ごろまでか ? )は『六法全書』よりも、マルクスの『資本論』が優先された、というは興味深いです。  「潮見利隆は、大学院に入った際、指導教員の川島武宜 [1909-1992] から、一年間は六法を開くな、と言われたという。そして「六法全書の代わりに岩波の『日本資本主義発達史講座』 [1930] をこの一年間によく読め、それにもう一つ…『資本論』を読め、と言われた。」」 (179)  このように教育の現場で、何を読め、何を読むな、という指示でもって、弟子たちの思想形成を操作していたというのは、いまでは考えられないですね。しかしこうした読書の指導が、当時の革新左派の思想と運動を支えていた、というのは興味深い事実です。

■美徳でも悪徳でもない欲求とは

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バーナード・マンデヴィル『新訳 続・蜂の寓話 私悪は公益なり』鈴木信雄訳、日本経済評論社    鈴木信雄さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    本書は、マンデヴィルの『続・蜂の寓話』の新訳です。以前の翻訳も比較的新しい訳だったと思うのですが、さらに研究が進んで、 21 世紀にこのように新訳で読めるようになったことを、心よりお祝い申し上げます。  本書の訳者解説は、主としてマンデヴィルとアダム・スミスの比較に充てられています。明快で、情熱的な文章だと思いました。  スミスは、マンデヴィルの良質的な部分を継承した、といえるのですね。マンデヴィルは、個人にとっての悪徳(虚栄を求める欲望)が結果として公益につながる、と指摘しました。だから人間は悪徳人でかまわないし、悪徳を発揮したほうが、社会はかえってよくなる、と発想しました。マンデヴィルにとって、美徳を求める心は、腹黒いものだとされました。しかしスミスは、美徳への愛は、純粋に愛すべきものだというのですね。賞賛されたいとか、承認されたいという欲望は、腹黒いものではなく、すばらしい情欲であり、尊い情欲だ、というのですね。  正確に言えば、スミスは、賞賛欲や承認欲にはいろいろあって、虚栄心 = 悪徳によるものもあれば、美徳によるものもある、と考えました。マンデヴィルのように単純に悪徳だ、とみなしえないと考えたのですね。  すると、二つ検討すべき点があると思います。  一つは、悪徳に基づく賞賛欲・承認欲と、美徳に基づく賞賛欲・承認欲の、いずれを鼓舞した方が、社会はいっそう繁栄するのか、という問題です。スミスの『道徳感情論』を、『国富論』のテーマにつなげて読むと、どんな追加考察を得ることができるのか。  もう一つは、悪徳でも美徳でもない賞賛欲・承認欲というものがあるはずで、むしろそのような、「悪徳や美徳に還元されない人間の欲求」、あるいは人間を突き動かす動力こそ、社会の繁栄にとって重要なのではないか、という論点です。  私が拙著『自生化主義』その他で考察しているのは、この悪徳でも美徳でもない欲求についてです。これは従来の道徳論では、うまく主題化できていないようにみえます。このような観点から、マンデヴィルを読みなおしてみようと思いました。

■市場社会主義は可能か

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  松井暁『社会民主主義と社会主義』専修大学出版局   松井暁さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    社会民主主義の理念をもう一度評価直して、社会主義の思想的・政策的可能性を見出そうというのですね。現在の日本共産党やその他の社会主義・共産主義政党の立場を、現実的な観点から位置づけようとすれば、この本に書かれているような論理になるのではないか、と思いました。  総論として、マルクス主義、あるいはマルクス派が、一枚岩ではなく、結構、多様だということが分かりました。  マルクス派は、資本主義の形成期(日本では 20 世紀の後期を含む)には、経済成長が重要だと考え、労働を奨励し、国家による経済のコントロールが必要だと考え、経済ナショナリズムを推進してきました。しかし資本主義が成熟すると、マルクス派の一部は、「定常社会」を求めるようになる。背後には、経済成長社会の追求が現実的ではなくなったという認識があるのでしょう。またマルクス派の一部は、脱労働(自由時間の拡充)、国家の縮小、コスモポリタンな連帯(例えば航空税のような国際的な課税制度への賛同)、などを主張するようになります。  本書の立場も、一方では、資本主義の下で福祉国家を追求する道(社会民主主義)は、その役割を終えたという立場をとりながら、他方では、「市場社会主義」の理念を掲げ、計画経済へ移行しなければならない、としています。  その際の論点は、国家がすべての企業に対して、生産手段の社会的所有を法的に義務づけるかどうか、にあるのではないか。  例えば大学という組織は、その設備を社会的に所有して、そこで働く教員たちの労働を社会的に所有し、さらにその生産物たる学術的成果を公開する(オープンにする)ことによって、市場社会の条件の下で共産主義の理念にふさわしいことをいろいろ実現できているのだと思います。このような組織の在り方を拡張していけば、やがてすべての組織は社会主義的に運営できるかもしれない。ではそのための道筋をどのように描くのかですが、政策ビジョンを争うことが必要です。政策をめぐる論争のなかで、あらためてイデオロギーの真価が問われるのではないか、と思いました。  

■大塚久雄の本の中国語訳です

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周雨霏訳、中国語版、大塚久雄『共同体の基礎理論』上海文芸出版社   周雨霏さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。 大塚久雄の最もよく読まれている本の一つを、中国語に翻訳されたのですね。しかも今回の中国語訳は、意外なことに、初訳なのですね。日本で出版された同書と比べて、表紙のデザインがよいです。 出版を心よりお喜び申し上げます。中国人留学生の方々に、勧めたいと思います。

■重商主義と古典的自由主義の違いは微妙

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山本英子『グラスランの経済学  18 世紀における主観価値論の先駆者』早稲田大学出版部   山本英子さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   ジャン・ジョセフ・ルイ・グラスラン (1727-1790) 。正しい発音ではグララン。彼はフランスの経済学者で、アダム・スミスと同時代人ですね。亡くなった年が同じです。スミスの方が四歳年上でした。  グラスランは、ほとんど忘れ去られた経済学者ですが、職業は、ナントの総徴税官だったのですね。当時のフランスで支配的だった経済学説は、フィジオクラート(重農経済学)の理論でした。これに対してグラスランは、重商主義的な関税政策を提唱します。しかし実際には、グラスランが提案した関税は、土地だけでなく奢侈的な消費に対して課税するための手段であり、必ずしも一国ナショナリズム的な発想に基づいていないのですね。その意味では、重商主義というよりも、自由市場経済主義であり、ただ、どこに課税するかという問題ですね。グラスランは、あまり生産的ではないにもかかわらず奢侈な消費をしている貴族たちに課税することが、一国の富を増大させる、と発想したのですね。  この奢侈的な消費に対する消費税という発想は、グラスランが徴税の仕事を専門にしていたこともあって、実際に導入すれば機能したでしょう。非現実的だといった批判は当たりません。当時は、富裕層がどれだけの所得を得ているのかを把握することは、とても難しかった。しかし富裕層は、その地位にふさわしい消費(地位消費)をする。そうしないと、自分の社会的地位を維持することができないからです。そのような社会規範があった。だから、生命維持に必要な基本財には消費税を課さずに、奢侈財に対して消費税を課すことができたし、それが相応しかった。消費税を課しても、高い地位にある人たちは、自分の地位を維持するために「地位消費」を続けるからです。具体的に、奢侈財の原材料を輸入する際に、関税を課す、というのですね。  そしてこの課税で得た収入によって、国内の製造業を支援していく。これは、一見すると重商主義ですが、解釈の仕方によっては、自由市場経済のための消費税制度であり、スミスの場合も消費税に賛同していましたから、古典的自由主義として解釈できますね。  このように解釈してみると、重商主義と古典...