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■見田宗介は消費社会に対する見解を変えた

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    山本理奈「現代社会論の課題」『思想』 2023 年 8 月号   山本理奈さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    雑誌『思想』の本号の特集は、「見田宗介 / 真木悠介」です。 見田先生は、 1937 年生まれ。 2022 年 4 月 1 日に逝去されました。改めて、心よりご冥福をお祈りいたします。  見田先生は『現代社会の理論』(岩波新書)で消費社会論を展開したのですが、その後、この本の増補版で、考え方を改めたのですね。 初版では、「自由な市場システムをとおしてであっても、自然収奪的でなく、他社会収奪的ではない仕方で、情報化 / 消費社会化を永続することは可能なはずである」、と見田先生は書きました。  しかしのちの増補版では、そのような可能性に「人間は永久に依存しつづけることはできないだろう」として、 21 世紀の課題は、「〈自由な社会〉という理念を手放すことなしに、現在あるような形の「成長」依存的な経済構造 = 社会構造 = 精神構造からの解放の道を見出すということ」だというのですね。  最近、「脱成長」ということが語られています。しかし脱成長というのは、 GDP に代えて、 HDI (人間開発指標)を用いて社会の繁栄を考えようという発想を、否定しないですね。私たちは、自然収奪的ではなく、他社会収奪的ではない仕方で、 HDI を考えることができるでしょうか。これがいま、見田先生の問題関心を引き継ぐうえで、重要な論点であると思いました。

■黒川創さんの那須耕介論

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  瀧口夕美 / 黒川創『生きる場所をどうつくるか』編集グループ SURE   那須美栄子さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   2024 年、 SURE の最新刊は、三つの討論と一つのインタビューからなる本です。アナキズムという言葉がキーワードになっています。自分たちにとって居心地のいい場所を作るには、どうすればいいのか。それぞれ語り手たちの活動と思想家への参照によって、熱く語られています。 第三章「場所に根ざしたアナキズムを掘り起こす」は、黒川さんがかなりの紙幅を割いて、那須耕介さんについて語っています。アナキズムとの関係はほとんどないですけれども、黒川さんの語りは、那須耕介さんという人間の本質を、さまざまな角度から深くえぐり出した、たぐいまれな人間論になっています。  那須さんは、大学生のときから SURE に参加していました。黒川さんとは、長いお付き合いだったのでしょう。黒川さんは、那須さんのエピソードをいろいろ語っています。  那須さんは、北沢恒彦という人物に惹かれていました。北沢さんの『隠された地図』という本を SURE で編集して出したときに、那須さんはとてもいい本だと言って、私に恵存してくれました。この本については、私は以前、ブログで感想を書いたこともありました。けれどもなぜ、那須さんがこの本とこの著者にこだわりをもったのかについては、今でも分かりません。何か見えない連関があるのでしょう。黒川さんは、次のようなエピソードを紹介しています。  「 [ 北沢 ] 恒彦は中小企業診断士として、京都の町を歩いていた。那須さんは、こうした恒彦が残した膨大な「商業診断報告書」についての解説をいずれやりたいと考えていた。だから、基本的な資料も自分の研究室に預かってくれていた。/那須さんがなくなるちょっと前、京都工業繊維大学の美術工芸資料館が、これらの北沢恒彦の資料を引き受けてくれることになった。那須はそれらの運送まで手伝ってくれた。彼の運転で、研究室からそこに資料を動かした。そうした彼の行動の取り方は、大学教授という職業の常軌から、はみ出すところがあったと思う。」 (102)  この北沢さんの資料は、いずれ整理されて、小さな展示が行われるだろう、ということですが、それだけの価値ある資料を北...

■相国寺に寄宿した信長

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    中井裕子『室町・戦国時代の相国寺領荘園』相国寺教化活動委員会   中井裕子さま、相国寺教化活動委員会のみなさま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   室町時代に、相国寺領の荘園が全国的に広がっていく、その広がりと分布の特徴が、詳しく分析されています。  興味深いのは、織田信長が京都に入って政権をとる際に、一時期、相国寺で暮らしていたことです。   1569-1573 年のあいだは、信長は妙覚寺で暮らしていた。このころの妙覚寺は、二条室町付近にあったのですね。 その後、 1574 年の三月から翌年の七月まで、信長は相国寺で暮らしたのですね。約一年半ですね。  信長が相国寺に寄宿することで、相国寺にはおそらく、大勢の兵士たちが暮らすようになったでしょう。それで僧侶たちは追い出されたでしょう。お堂を「厩(うまや、馬小屋)」にしたり、部屋を取り壊したりしたことが、推測されるというのですね。  信長が相国寺を選んだのは、その前年に将軍の足利義昭が亡くなり、それで将軍に代わって朝廷を守るために、相国寺の場所が適していた、というのですね。

■女性管理職を増やすには

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  駒川智子 / 金井郁編『キャリアに活かす雇用関係論』   大槻奈巳さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   国立女性教育会館が 2015-2019 年に実施した調査の結果が興味深いです。  昇進意欲は、入社一年目で、男性 95.6% 、女性 67.8% なのですね。ところが入社 5 年目になると、男性 84.3% 、女性 44.4% になってしまう。女性のほうが、昇進意欲を大きく低下させています。 (65)  では女性は、どんなときに管理職への昇進意欲をもつのか。それは、「専門能力を高めたい」場合、また「仕事満足度」が高い場合なのですね。これに対して「主に女性が担当する仕事についている」と答える人は、昇進意欲が低いのですね。  別のデータで、 2020 年の「管理的職業従事者の割合と女性比率の国際比較」では、おそらく何をもって管理的職業と呼ぶのか、という定義の違いが大きいと思うのですが、日本では、管理的職業従事者に占める女性の割合が 13.3% で、これは韓国の 15.7% よりも低いです。欧米諸国との比較については、やはりカテゴリーが違うような気がします。  では管理職の人は、一般社員に比べて、どけだけ多く働いているのでしょう。日本の場合、一般社員も多く働いているので、一か月あたりの労働時間の差は、 13 時間弱なのですね。これはつまり、管理職の人は、一日あたり、 30 分から 40 分多く働いている、という計算になるでしょうか。  いま日本の企業で、女性を活用するために、何をすればいいのか。本書の分析から、いろいろ見えてきました。とくに、管理職の労働時間をもっと減らして、その職務内容を明確にして、女性が管理職につきたいという昇進意欲を高めていくことが重要なのですね。そのようにしてはじめて、女性の労働供給を増やすことができるのだと。

■労働という言葉の意味はドイツ語と英語で異なる

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    星野彰男『アダム・スミスの動態理論』関東学院大学出版会   星野彰男さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    「労働」という言葉は、英語で labour 、ドイツ語で Arbeit になりますが、英語とドイツ語で、意味が少し異なるのですね。 Labour は、労働力という意味を含みますが、 Arbeit はそうではないのだと。  マルクスがスミスを批判したときに、どうもマルクスはこの意味の違いに気づいていなかった。スミスの場合、 labour は、労働する主体の側の活動力、という意味になる。ところがマルクスの場合、 Arbeit は、活動力という意味は弱い。むしろ労作、つまり労働によって対象化されたもの、という意味になる。英語で work と言えば、このような対象化されたものという意味を持っているけれども、 labour の場合は、このようなニュアンスがないのですね。 この意味の違いは重要ですね。マルクスのスミス批判は、 labour と Arbeit の意味の違いを、マルクスがしっかり把握していなかったことに基づくというのは興味深いです。 例えば、スミスは、「労働の価値」という言葉を使いますが、マルクスは「価値という言葉は余計であり、無意味である」と批判します。しかし Arbeit には「労働の(対象化された)価値」という意味がもともと備わっているけれども、 labour には備わっていない、ということですね。  

■ウェーバーのいう「形式合理的な経済行為」とは

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    W. シュルフター『官僚制的支配の諸相 マルクスとヴェーバーの先進産業社会解釈とその批判的論議』シュルフター著作集 2 、佐野誠 / 林隆也訳、風行社   佐野誠さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   本書は、ウェーバー研究者のシュルフターの著作集、その第二巻です。全体で全六巻の翻訳企画のうち、他の巻はすでに刊行されていたのですが、この第二巻が最後に、最近になって刊行されたということですね。  私は以前に、この著作集の第四巻と第六巻を読みましたが、とくに第四巻の『信念倫理と責任倫理』は、すぐれた概念分析であると思いました。私は拙著『社会科学の人間学』で、この本の分析をさらに乗り越える概念分析を提示するという、野心的な試みをしたのでした。  シュルフターはとてもすぐれた研究者であると思うのですが、この第二巻で扱っている官僚制の問題は、そもそもウェーバーの官僚制論に限界があるような気がします。  訳者解説で解説されているように、かつてマルクーゼはウェーバーの官僚制論を批判して、独自の思想を展開したのですが、マルクーゼのウェーバー理解は間違っていた。これに対してハーバーマスのウェーバー理解は正しくて、ハーバーマスは、ウェーバーを内在的に乗り越えた、ということですね。これは正しい学説理解だと思います。  しかしそれでも、マルクーゼの独創的な思想の価値が失われるわけではありません。私たちは現代の官僚制を超えて、どんなシステムを築くべきなのか。この問題について、ウェーバーはあまりヒントを与えていないですね。むしろマルクーゼのほうが構想力をもっている。 私はウェーバーの思想を、新保守主義の観点から解釈すべきである、ということを主張していますが、これは官僚制をある方向に変容させようとするものです。  本書から、私はとくに、ウェーバーの「形式合理的な経済行為」の概念について学びました。シュルフターによれば、この概念には、一種の内在的制約があるのですね。 (325)  労働者が、経営手段を所有して経営管理するような組織は、マルクス主義の観点からみて一つの理想であり、資本主義を乗り越えるための一段階とみなしうるのですが、ウェーバーはこれを、形式合理的な経済行為と矛盾するものだ、と考えたの...

■ウェーバーの「権力」概念を乗り越える

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    橋爪大三郎『権力』岩波書店   橋爪大三郎さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   これは社会学の理論的な中心問題を、ストレートに論じた本ですね。驚きです。理論は、若いうちに構築しないとダメだという通念が、吹き飛びました。  最も重要で中心的な議論は、ウェーバーの権力の定義を、いかにして乗り越えるか、という理論的課題なのですね。  ウェーバーの定義:「権力とは、ある社会関係のなかで、自らの意思を、たとえ抵抗があろうとも押し通すことができるあらゆる機会のことをいう。この機会は、何に基づくものでもよい。」 (162)  しかし権力をこのように定義すると、例えば、企業に権力はあるのか、という問題に対して、「権力はある、ただしこれこれの条件(社会関係)の下で」という条件がつくだけでなく、「権力はない、ただしこれこれの条件(社会関係)の下で」という条件も付く。  「たとえ抵抗があっても押し通すことができる」かどうかは、さまざまな価値の観点によって、異なった評価になるでしょう。実際に抵抗があるとすれば、権力の認定は、事実認定できます。しかし、実際に抵抗がない場合に、「たとえ抵抗があっても押し通すことができる」と、どうやって認定するのでしょうか。いろいろな解釈が成り立つでしょう。これはつまり、権力の存在は、かならずしも事実認定の問題ではない、ということですね。 いずれにせよ、そこにおいて想定されているのは、権力が作用すると、相手は自由ではなくなる、という前提です。ところがこの前提も疑わしいですね。権力が作用すれば、人は自由ではなくなるのか。そんなことはないですね。人を自由にするような権力作用も、あるはずです。  ウェーバーの定義は、十分ではない。そこで橋爪先生の定義は、・・  「権力は、人が人を従わせること、である。」  「権力は、人が人に従うこと、である。」  この二つのうち、前者のほうが根本的だというのですね (192) 。  私が思うに、この定義のメリットは、規範理論の観点からみて、自由な社会を作るための正当な権力の作用を、論じることができるという点です。  ラディカルなリベラルは、あらゆる権力と権威を批判して、権力作用のない社会、権威のない社会を理想とし...