■消費社会を批判するよりも「沼にはまる技術」を



 

貞包英之『消費社会を問い直す』ちくま新書

 

貞包英之さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

戦後日本の消費社会の担い手は、中間大衆でした。ところが1990年代以降、格差社会の進展とともに、マスとしての中間層が崩壊して、富める人と貧しい人に分解していく。すると貧しい人は、大衆的な消費文化を享受できなくなっていく。

ところが現在、消費文化の中心は、インスタグラムやツイッターなどのSNSで情報を発信したり、あるいは、YouTubeなどの無料のコンテンツのなかから、価値あるものを探し出したりする活動になっている。これらはほぼ無料の消費活動ですね。所得が低くても享受することができます。

「推し活」という言葉も生まれましたが、自分が好きなアイドルなどを推す場合には、お金を使う必要がある。ある程度の金銭的消費が求められます。しかしネット上では、それほど金銭を用いない「推し活」もあるのですね。

金銭ではなく、膨大な時間と情熱を捧げて活動するという、そういう消費活動が全般化すると、それは経済を活性化しません。また金銭を用いない消費活動は、どこまで文化を活性化するのか。あるいは反対に、文化に対して負の効果をもたらすのか。そのようなことが問題になるでしょう。

本書のテーマの一つは、「賢い消費」はいかにして可能か、というものです。賢い消費は、一つには、ミニマリズムですね。そしてもう一つには、ネットでどのようにして価値あるものを探すのか、というノウハウですね。

つまり、モノを賢く買うのではなく、モノは基本的に買わない。しかし賢く生きたるためには、情報を賢く集めないといけない。だから情報との付き合い方が、「賢い消費」の中心課題となるわけですね。

私たちの時代は、たしかにそのような段階に差し掛かっていると思います。私たちの時代の消費社会論は、消費社会をいかに「批判」して賢くなるのか、という「知」を提供するのではなく、いかに賢く情報を集めるのか、あるいはまた、いかにして膨大な時間と情熱を捧げるに値する活動を見出すのかーー言い換えれば「いかにして沼にはまるか」――という「知」を提供するように求められているのではないか。そのようなことを考えました。

 


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