■ウェーバーvs.ラッファール 「プロ倫」をめぐる当時の論争

 




 

竹林史郎『歴史学派とドイツ社会学の起源』田村信一/山田正範訳、ミネルヴァ書房

 

田村信一さま、山田正範さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

竹林史郎先生がドイツ語で刊行された本を、日本語に翻訳されたのですね。

この本の副題は、「学問史におけるヴェーバー資本主義論」です。社会学史研究として、決定的といえる内容であり、一つの到達点だと思います。ウェーバーと同時代の学問がどのように展開され、ウェーバーがその中でどのような貢献をしたのかについて、徹底的に調べてまとめています。

 本書の第八章で、「ウェーバー・テーゼ」の妥当性が検証されています。当時、ラッファールがウェーバーのプロ倫を批判して、それに対してウェーバーが応答し、ラッファールがさらに批判する、という論争が展開しました。私たちはこの論争から、何を学ぶことができるでしょうか。

 いろいろな論点がありますが、結論から言えば、私が拙著『解読ウェーバー』で提起したように、ウェーバーの説明においては、「プロテスタンティズムの倫理」と、「プロテスタンティズムの経済倫理」のあいだに、概念上の断絶がある。この点を、ラッファールは理解していないと思いました。

ラッファールは、イングランドにおいて、敬虔派的少数派の特徴的な職業倫理が、資本主義の発展に対して与えた影響は、それほど大きなものではないと考えます。資本主義の精神を担ったのは、リベルタン[自由思想派]、合理主義者、宗教的無関心層、啓蒙主義、などの広範な担い手であった、と考えます。しかし、「プロテスタンティズムの経済倫理」というのは、すでにカルヴィニズムの倫理を超えて、世俗的な勤労倫理になっていましたし、ウェーバーはそのようなものとして理念化しています。歴史的に問うべきは、カルヴィニズムの担い手ではなく、バクスターの経済倫理を受け入れた読者層であり、それが本当に、資本主義の精神の担い手の多数派なのかどうか、ということでしょう。

実際には、バクスターが説くような、プロテスタンティズムの経済倫理(禁欲に基づく労働エートス)の担い手だけでなく、禁欲的ではない人たちも、資本主義の精神の担い手になったかもしれませんね。

ただしウェーバーの歴史理論は、このような可能性を否定しているわけではなく、ルターからカルヴァンを経て、バクスター経由で資本主義の精神を担う人たちが現れるという、歴史の中の一つの因果関係を明らかにすることが目標になっています。ですので、資本主義の精神が、他のルートでどのように生まれたのかについては、ウェーバーは問題にしていないだけであり、その可能性を排除しているわけではないですね。

というわけで、ラッファールの批判の多くは、ウェーバー・テーゼと両立するようにみえます。ただ北米で、プロテスタンティズムの経済倫理がどのように形成されたのか。バスクターはどれほど北米で読まれたのか。ここら辺を知りたいと思いました。プロテスタンティズムの倫理という理念型は、一方の「二重予定説」と、他方の「結社」という、二つのベクトルによって規定されています。では、結社型の北米のプロテスタンティズムは、そこからどのようにバクスター的な経済倫理に向かったのか。理論的には断絶があるのでしょうけれども、歴史的因果関係として、これを実証している論文があるかどうか。そのようなことを知りたいと思いました。

 


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