■社会の加速化に追いつけない私たち
出口剛司さま、伊藤賢一さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。
ハルトムート・ローザは、独創的な理論家ですね。と同時に、詩人でもあると思いました。本書には、いろいろな洞察がちりばめられていて、心に響く洞察も多いです。
一方で、ローザは、難しい言葉で簡単なことを語っている場合も多々あります。また、社会を観察するためのアイディアはいろいろあるのですが、社会を批判的にみる際の視点が安定していないという印象を受けました。批判が鋭いと感じるのは、現代社会の病理を、世界の破滅という観点から診断する点ですね。加速する社会は破滅する社会なのであると。
では破滅しない、健全な社会とは、どういうものなのでしょう。それは加速しない社会なのかもしれませんが、そのような社会を目指して減速するというのは、実は不可能で、ローザのみるところ、急ブレーキを踏むか、超高速で突き進むか、という選択になるのですね。
この二つの選択肢の中間で、うまく社会を舵とることは難しいというわけですね。けれども私たちは、そういう舵取りを考えなければならないでしょうし、それこそ規範理論の課題なのでしょう。ですが批判理論というのは、できるだけラディカルに社会を批判し、診断するような視点を求めているので、なかなか現実味のある規範理論にすすむことができない、という印象をもちました。
しかしこれは第一印象なので、もっと本書を読み込めば、また新たな知見を得ることができるかもしれません。ローザの後発には、論述の切れ味と奥深さを感じます。
ローザのいう「加速」とは、第一に、技術発展の加速です。第二に、流行、ライフスタイル、雇用関係、家族構造、政治的・宗教的結びつき、などの加速的変化です。第三に、生活のテンポの加速です(380-381)。
問題の根本は、技術が進歩すれば、私たちは生活のテンポを上げる必要がないのに、それでも私たちは、生活のテンポを上げてしまうというパラドックスなのですね。例えば、私が論文を書く際に、これまではさまざまな資料を図書館で探していたけれども、いまはネットで多くの資料を探すことができるようになり、それだけ早くアクセスできるようになりました。パソコンの性能が上がったことで、速く論文を書くことができるようになりました。その分だけ、私は余暇時間を手にしたはずなのですが、しかし私は、パソコンがなかった世代の研究者たちよりも、より多くの研究成果を出すことができる環境にあるのだから、それだけ多くの成果を求められているように感じます。こういうパラドックスですね。
実際には、パソコンがなかった時代、例えば1970年代よりも、私たちの時代のほうが、研究者の研究時間は短いかもしれません。それでも研究成果を出すためのストレスは、大きくなっているかもしれません。これもパラドックスですね。
加速化する社会においては、流行、ライフスタイル、雇用関係、家族構造、政治的・宗教的結びつきなどを、安定的にしようというのが「保守」のスタンスですね。これに対して、これらの結びつきがもろくても大丈夫なように、リスクに対応しようというのが「リベラル」のスタンスですね。
加速化する社会では、社会から一時的に離脱するようなバッファー空間を作ったとしても、そのようなバッファーを通じて、人生の新たな選択肢を探すことは難しい。だからバッファーよりも、新たな選択肢を探すための機会を提供した方がいい、ということになる。さまざまな可能性を利用できるようにして、しかし利用しなくてもいいことにする。そういう社会がよい社会だ、ということになる。これはアドルノが『ミニマ・モラリア』で描いた「真の社会」なのですね(387)。
また、加速化する社会においては、安定したアイデンティティを得ることが難しい。長期的な人生計画を自分で立てて、自律的に生きることは難しい。仕事も流動的になる。
テレビやコンピューターゲームも、一度にたくさん、しかも倍速で享受することができるようになりました。しかしそのようにして体験された事柄は、真の経験とは言えません。たくさん体験しても、あまり記憶に残らないので、時間がはやく過ぎ去ったように感じられるでしょう。私たちは、記憶力の限界に直面しますね。
しかしなぜ、加速化した社会では、何事も手際よく速くこなしていかねばならないのか。それは資本主義の論理が、時間をマネーとみなすからであり、一定の時間内に多くをこなすことができれば、利潤率が上がるからですね。加速することで、利潤をえることができる。
人生の速度を二倍にすれば、人よりも二倍生きることができる。この速度を無限に加速していけば、無限の人生を生きることができる。これはつまり、永遠の人生を手にしたいという、宗教的な生き方を世俗社会のなかで補完するものだというのですね(393)。
これは言い換えれば、加速する社会のなかで、できるだけ多くの事柄を経験して死ぬことが、永遠の生を獲得することの機能的な等価物となっている。あるいはそれが「善き生」とみなされる。自分の可能性を最大限に発揮して、世界の可能性を可能な限り利用しつくすこと。加速する社会では、こうした「欲望=善き生の理想」が生まれるわけですが、これは同時に、一つの宗教的な人生観となる。
けれども、このような善き生の理念を追求しようとすると、それは欲望を最大限に追求することになり、いつのまにか、自分のアイデンティティがなくなってしまう。自分とは何者なのか。それが時間のなかで流動化してしまい、把握できなくなってしまう。これはいわば、ポストモダンの時代に生まれた、漂流する自我というものですね。目的がなく、文脈もなく、したがって意味を与えることもなく、断片的な生になっていく。
私たちは、加速された社会のなかで、生活の速度を高めて社会を享受することで、世界全体の経験に追いつこうとする。世界全体を把握しようとする。ところがパラドキシカルなことに、人々がみなこのような生き方をすると、つねに多くの経験が生まれ、私たちはいちまでたっても世界を把握することはできない。これが加速の病理ですね。
加速して生活しても、世界を把握することはできない。ではどうすればいいのか。私たちが「本当に欲しいもの」はなにか。加速社会においては、それが見えなくなっている。加速社会は、私たちに対して、欲しくないものを大量に享受するように求めている。
しかし私たちは、自分にとって「本当に欲しいもの」が手に入るように、社会を変革すべきではないだろうか。これは一つの規範理念になりますね。しかしそのような、ある意味で素朴な考え方に立って社会を変革すると、やはりうまくいかない。人間というのは根本的な欠陥があって、「本当に欲しいもの」を求めるようにはできていないのでしょう。加速社会を加速して生きるという、マルチチュード的な生き方のほうが、すぐれた理想なのかもしれません。
しかし人間の知恵として、人生を減速することもできます。ではそれがどんなものなのか。おそらく高齢者になれば、多くの人がそのような知恵を身に着けているはずです。社会理論はまだその知恵を理論化するには至っていないのかもしれません。
ローザは、脱成長のような、社会に「急ブレーキ」をかけるような思想と、ブレーキを踏まずにカタストロフィーに至るシナリオを対比していますが、これは批判理論として、私たちが現実の社会を診断する際に役立ちます。この二つのシナリオをもって、私たちは社会を舵とる必要があるのでしょう。