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■遺伝によって「生まれつき」が決まるわけではない

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ジョナサン・マークス『科学から見た人間の〈多様性〉とは何か 遺伝科学と疑似科学』桐谷知未訳、作品社   作品社編集部さま、ご恵存賜りありがとうございました。    この本は、よくある誤解を正す入門書です。  例えば、遺伝だ、生まれつきだ、運命だ、といったことは、それぞれ異なる意味をもつわけで、遺伝によって「生まれつき」が決まるわけではなく、「運命」が決まるわけでもない、ということですね。  また、遺伝的な差異が、人間集団を確定するわけでもない。例えばノルウェー人とデンマーク人を遺伝子レベルで差異化できるかというと、怪しいのですね。  私たちは、遺伝子の差異によって、血統を語ることがあります。しかし私たちが先祖から遺伝子を受けついでいるといっても、よく考えてみないといけない。 減数分裂と呼ばれる細胞分裂の過程で、生殖細胞の染色体の数は半分になります。その初期段階で、各染色体は、対となる相同染色体を見つけて、接着して断片を交換します。これを「乗り換え」と呼びます。この乗り換えによって、私たちは父親と母親の遺伝子を半分ずつ受け取ることになります。  すると、この過程を 11 世代繰り返すと、私たちは、 11 世代前の先祖の遺伝子を、 2048 人から受け継いだことになる。遠い世代から受け継いだ遺伝子は、平均して0. 1% 未満。では、この 2048 人の先祖を、自分の先祖として敬うことができるのか。敬うことができる人は、道徳的にどのような意味で美徳を持っているのか。この問題を考えてみたい。  この問題は同時に、未来向けて、私たちの 11 世代後の人たちへのケア(配慮与)という問題にもつながります。未来人をケアできる人は、どのような意味で美徳を持っているのか、という問題です。

■AIが作った曲は誰のもの?

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デイヴィッド・ベロス / アレクサンドル・モンタギュー『著作権全史 古代ギリシアから AI 時代まで』小佐田愛子訳、作品社   作品社編集部さま、ご恵存賜りありがとうございました。    本書は、著作権の歴史を鳥瞰しています。著作権をどの範囲で認めるかは、その権利の設定が、さらなる文化的発展を促すのか、という問題に依存するのでしょう。生産者たちが、ますます豊かなものを生産するインセンティヴをもつ。そして消費者も、ますます豊かなものを消費するインセンティヴをもつ。そのような関係を築けるのかどうかにかかっています。  では、生産者の生産インセンティヴを刺激して、消費者の消費インセンティヴを挫く場合はどうでしょう。反対に、消費者の消費インセンティヴを刺激して、生産者の生産インセンティヴを挫く場合はどうでしょう。著作権は、最終的にはバランスで決めることが望ましい。けれども実際には、そのバランスが分からない(不確定)なので、その時々の政治の権力関係によって、既得権層が儲かる仕組みになる、といったことが生じるのでしょう。  例えば、ドレスや靴の美的なデザインは、著作権を設定してもいいように見えますが、それが「もっぱら実用品のデザイン」として用いられる場合は、著作権を設定できないのですね。ところがこの基準は微妙で、実際に裁判で認められる著作権の範囲は、振れ幅が大きい、というのですね。 (254)  あるいは AI が作った曲ですが、これはいまのところ、著作権を登録した人が、その著作権を持つ。この場合の著作権の設定は、問題を「一時的に回避する策」と言えそうです。権利といっても、誰が権利を所有するのかについて答えがない問題に対する「回避策」として、暫定的に設ける権利だと。そのような暫定的な権利も、制度的に正当化されるのですね。  本書は最後に、「もし翻訳権(翻訳書に対する原作者の著作権)が設定されなかったとしたら、世界はどうなっていたか」という問いを検討しています。興味深いです。本書は言及していませんが、そうなるとおそらく、読者は自国の作家が書いた本よりも、他国の作家が書いた本を読むようになるでしょう。翻訳本の方が割安だからです。すると世界は、もっと人々のあいだの心理的な距離を縮めていたかもしれません。

■プラットフォーム企業は商品の価値を創造する

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安藤元博『価値創造する市場 テクノロジーが紡ぐ新しい交換』勁草書房   安藤元博さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    本書は「広告が価値創造の一端を担う」という考えを、オーストリア学派の理論を取り入れて論じています。オーストリア学派は、価値の創造過程を論じているわけではありません。あくまでも価値を主観的に捉える、という学派です。しかし価値を主観的に捉えることは、生産の場面で、労働者の労働が価値を生むだけでなく、流通の過程で広告業者が商品に価値を加えることを許容するでしょう。  さて、この商品の価値という考え方を、商品のプラットフォームづくりにまで拡張すると、アマゾンやグーグルなどのプラットフォームは、商品の流通コストを引き下げているだけでなく、信頼の価値を形成している。  商品のプラットフォーム化がすすめば、どの会社のどの商品が信頼できるか、という情報の問題に、大きな進展がみられるでしょう。本書の表 3(322-323 頁 ) が参考になりました。  サプライチェーンの可視化(製造過程・流通過程)によって、同一の商品性を保障(虚偽の混合可能性の排除)することができるようになります。また、未知の取引相手(買い手)についての情報も開示されるなら、取引の信頼性は増すでしょう。例えばシェアエコノミーでは、不特定多数の参加者を排除して、商品をシェアする人たちに対する信頼を高めることができます。  このような仕方で信頼度が高まると、商品の価値も高くなる、というわけですね。これは別の観点から見れば、流通過程は商品の価値を高めたのではなく、商品の信頼度を高めただけだ、と言われるかもしれません。けれども商品が高く売れるということは、そこに価値創造があったからであり、それは商品の価値として解釈できる、ということでしょう。

■政治家に必要なのは思想、戦略、未来

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エマニュエル・マクロン『革命 仏大統領マクロンの思想と政策』ポプラ社    吉田徹さんが「いい本」だと言っていたので、読んでみました。  大きく分けて、二つ学びました。一つは、フランスはいま、衰退している。社会が分裂しつつある。そのような状況で、大統領に課されたミッションは何か、という問題意識です。これは日本でも、おそらく 10 年後には、同じような言説が必要になっているのではないかと想像します。 またマクロンの政策思想は、「新しいリベラル」に近いです。未来に投資するという考え方を前面に出しています。「私はイノベーションと投資に重きを置いた。野心的な産業振興政策をつくりだそうとした」と (43) 。平等主義ではない、公的支出を増やすのでもない、イノベーションを導くのだと。(ただし少子化対策については、それほど論じていません。) 「まず、国家の役割を劇的に変えることから始めなければならない。国家は、真の「社会への投資家」となり、個人個人が何者かではなく、どのような人になることができ、集団に何をもたらすことができるかによって判断しなければならない。したがって、社会保障を充実させるだけで満足してはならない。それは国家が最低限やるべきことにすぎない。」 (187)  マクロンによれば、大統領に課された課題は、再分配のために経済に占める政府部門の割合を大きくすることではなく、経済を発展させることです。この文脈でマクロンは、 1970 年代に労働者の自主管理経営で話題になった、リップ社に触れています。 リップ社は、ブザンソン市の時計会社です。ブザンソン市はそれまで、時計産業に投資してきました。しかし時代は、クォーツの技術によって、デジタル化へと転換していきます。従来の時計産業は、やがて淘汰されるという局面を迎えました。しかしその後、ブザンソン市では、公立研究所と民間企業が中心となって、各種の精密技術に投資します。現在、同市はマイクロテクノロジーの中心地として生まれ変わったというのです。斜陽産業の町から、いかにして新たな産業を興していくのか。ブザンソン市の経済発展戦略を、私たちは学ぶ価値がある、というのですね。 (217-218)  そしてもう一つ、この本の特徴は、第一部が「思想」、第二部が「戦略」、第三部が「未来」となっていることです...

■小川淳也代表のビジョン

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小川淳也『日本改革原案  2050 年成熟国家への道』光文社   私は最近、小川淳也さんの『日本改革原案  2050 年成熟国家への道』を読んでみました。 2014 年に刊行された本ですが、今読んでも古く感じません。長期的な視点があり、日本の進むべき道を、ある程度まで示していると思います。この「ある程度まで」という留保を付けますが、私の批判は別の機会に譲り、以下、この本についてメモします。 本書の内容は、中道改革連合が 2026 年 7 月 14 日に示した「競争力ある福祉国家」の構想(中間とりまとめ)とは、やや異なるでしょう。出版からすでに 12 年経っていますし、また 2023 年には、この本のアップデート版も刊行されています。ただし現在は絶版状態(復刊を望みます)。 以下、 2014 年版を参照します。その前に、 2026 年 7 月 14 日に示された「競争力ある福祉国家」の構想(中間とりまとめ)は、以下のサイトで示されています。   https://craj.jp/news/20260714_0477?preview=bb8fb70099c45ca02fb18ed8f7936cb2448a4852.vO9P8lb-0eTrGTGJ2gv8bx12E4r8zFJl9PaMYocdhQk    この 7 月 14 日の中間とりまとめでは、「競争力ある福祉国家」という言葉が、政策の中心理念となっています。「人への投資によって、一人ひとりの自由と可能性を広げ、その積み重ねと循環を通じ、社会の安心と経済の競争力を高める国家」というビジョンです。これは、私が「新しいリベラル」と呼ぶ考えにも結びつきます。  この「競争力ある福祉国家」の内容は、 2014 年に刊行された小川さんの『日本改革原案』で、すでに練られています。この本は、有志たちの勉強会を通じて練った案ということですが、随所に興味深い政策提案があります。例えば・・・   ・高齢者を 70 歳以上と定義すれば、 2050 年の高齢化率は 32% にとどまる。 65 歳以上とすると、 2050 年に、 40% が高齢者になる。 (88) ・生涯現役社会を実現して、基礎年金額は、収入に応じて減じる仕組みを考える。 (91) ・現在の相続の...

■本を読んだらご褒美

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大竹文雄『経済学的思考を組み立てる』中央公論新社    大竹文雄さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。  最近の経済書を広範に紹介しています。  教育の投資効果についての J.J. ヘックマンの分析が興味深いです。用いたデータは、 1960 年代のプロジェクトです。経済的に恵まれない 3 歳から 4 歳のアフリカ系アメリカ人で、平日の午前中に教育をした子どもと、しなかった子どもについて、その後、 40 歳になるまで追跡したのだと。追跡してみると、 10 歳のときには、まだ IQ の差は現れていません。しかしその後、 40 歳になるまでに、高卒率、持ち家率、平均所得、生活保護受給率、逮捕者数、について調べてみると、 15-17% の差が生まれた。つまり、 3-4 歳で、平日の午前中に勉強すると、その社会的投資効果があった、ということですね。  別の大規模な実験が紹介されています。米国で、 9.4 億円を使って、 3 万 6000 人を対象に、「テストで良い点を取ったらご褒美をあげます」と「本を一冊読んだらご褒美をあげます」という二つの動機づけで、どちらが子どもの学力を向上させるのかについて調べました。すると「本を読んだらご褒美」、という動機づけの方が、学力が伸びたのですね。  もう一つ。日本で、大学生の授業料を無料にするためには、 2.5 兆円の予算が必要なのですね。これは、消費税を 1% 増やせば実現できます。しかし多くの日本人は、大学生の教育に投資するよりも、消費税を 1% 増やしたくない、と判断するでしょう。でもおそらくですが、大学の授業料を無料化すれば、少子化をある程度まで防ぐことができます。その効果を含めて検討したいものです。  

■「偉大な政党」と「矮小な政党」

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古賀敬太 / 長谷川一年編『岐路に立つ民主主義』法政大学出版局   佐野誠さま、濱真一郎さま、田中将人さま、ご恵存賜りありがとうございました。    マックス・ウェーバーは、ヒットラーの全体主義政権を見る前に亡くなりましたが、ウェーバーの晩年の政治理論は、大統領に大きな権限を集中させる「人民投票的指導者民主主義」(ライヒ大統領制)を支持するものでした。それは、カリスマがトップに立つシステム(カリスマ的支配による政治システム)ではありませんが、次のような特徴をもちます (34) 。   ・大統領は国民によって選出される。その任期は 7 年以上。 ・大統領は、議会の立法に対しても、大きな影響力を行使できる。 ・大統領は、すべての官吏を任命できる。 ・大統領は、恩赦の権利を持つ。 ・大統領を解任するには、選挙人の 10% のイニシアティヴとレファレンダムで可能。    このような政治システムは、ヒットラー政権を可能にするかもしれません。ではどうすればよいのか。  全体主義の反省から、バーリンは、多元的民主主義のシステムを展望しました。それはあまり明確なビジョンではありませんが、私が考える「自生化主義」と似ています。すなわち、人間はいかに生きるべきか、自分でよく分かっていない、という前提で政治システムを考えるということです。もし「いかに生きるべきか」について分かっている、すなわち、「善き生とは何かが分かっている」という前提で社会を運営すると、権威主義の社会になってしまう。だから人生の目的をわきに置いて、あたかも子どもが遊ぶように、人生を楽しめるような社会にする。「いかに生きるべきか」を問わないで、よい政治、よい人生を考えようというのが、バーリンの発想です (188) 。  そのような社会は、多元的な民主主義になるでしょう。そしていろいろな模索をする社会になるでしょう。  トクヴィルの場合、発想はもっと大人ですね。どんな社会がいいのか。各政党にビジョンを出していただいて、競い合っていただく。トクヴィルによれば、しかし政党には「偉大な政党」と「矮小な政党」があり、いずれも長所と短所があるというのですね。(松本礼二訳、トクヴィル『アメリカのデモクラシー』第一巻、下 13 頁、岩波...

■「共感」について

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坂本達哉『「共感」の思想史』岩波新書    坂本達哉さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    「共感」という感情をベースにして「よい社会」を作ろうという課題は、私たちが、たんに「利己心」や「啓発された(利他性を考慮に入れる)利己心」をベースに社会を作っていくことのオルタナティヴとして位置づけられます。 共感をベースにして作られたルールは、利己心をベースにして作られたルールとは異なるはずです。ではどう違うのか。もしかすると、あまり違いはないのかもしれません。これは、 J.S. ミルが、共感論と正義論を矛盾なく接続していく過程で、すでに統合されていたのかもしれません。 「啓発された利己心」は、共感をベースにして、他者の利益を考慮することができます。望ましい「正義」の基準も、この啓発された利己心と共感の感情から、提示できるかもしれません。 本書の終章で紹介されているように、フライシャッカーは、ヒュームを「情動的共感(エンパシー)」論の代表者として位置づけ、スミスを「認知的共感(エンパシー)」の代表者(体系的に再構築した人)として位置づけました。認知的共感は、暖かい思いやりに欠ける一方で、啓発された利己心と両立します。また認知的共感は、内集団を超えて、外集団に対して共感していく力を発揮します。共感できない外国人を排除するといった、自国民中心主義を避けることができるでしょう。 ただし、スミスは認知的共感論から、高貴な祖国愛を求める一方で、世界人類愛のようなグローバルな次元の認知的共感については、あまり現実的ではないと考えたようです。それでも私たちの時代は、すでにメディアを通じて、世界中の出来事に触れることができます。 21 世紀の私たちの認知的共感は、経験的な次元でも、世界市民を形成する基盤になるかもしれません。 アマルティア・センは、スミスの共感論をあまり評価しませんでした。センはむしろ、スミスの「公平な観察者」に注目して、ナショナリズムを克服することを展望しました。しかし私たちは、スミスの認知的共感論を理論的に拡張して、世界市民になることができるのではないでしょうか。そのようなメディア環境が生まれているのではないでしょうか。公平な観察者の基準も、最適な認知的共感の基準も、いずれも変化していくでしょう。ではこ...

■下からの権威主義

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ラヴィーシュ・クマール『声を上げる自由 インドの民主主義と文化と国家について』倉田夏樹訳、湊一樹解説、作品社   作品社編集部さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    インドのモディ政権の下で、自由がしだいに奪われていく現実を、ジャーナリストの視点で生々しく描いています。とても深刻だと思います。米国トランプの政権においては、 2026 年、「報道の自由」の米国の世界ランキングが、 7 ランク下がって 64 位になりました。インドにおいては 2025 年のデータですが、報道の自由は、 180 カ国中 151 位です。インドの方が、かなり低いです。  インドで、「 IT 部隊」という言葉があります。オンライン上で、モディ政権のプロパガンダ活動を行う人たちを指します。ある人が政権を批判すると、この人たちに批判されて、「反インド、反宗教、野党の回し者」などと罵〔ののし〕られてしまうのですね。この IT 部隊による批判活動はすさまじい。だからメディアは批判を恐れて、政権の「御用メディア」にならざるを得ない、というのですね。  なるほど、これは「下からの権威主義」ですね。  モディ政権以前は、もっと自由でした。ところか最近では、マスメディアで政治を客観的・中立的に報道してきた人たちも、 IT 部隊に批判されて、自由な報道ができなくなった。モディ政権を支持する報道をするか、そうでなければ会社を退職せざるを得ないのだと。   IT 部隊は、 SNS を用います。ワッツアップ(日本の LINE のような SNS )で、言論をパトロールしています。モディ政権を批判する人を、誹謗中傷します。だから人々は、ワッツアップなどの SNS で、自由な言論活動ができなくなる。 これはしかし、 SNS の言論空間をどのようにデザインするかという問題でもあります。批判者に対する誹謗中傷が拡散しないように、 SNS の運営会社が工夫する必要がありますね。そうしないと、実質的に自由な言論活動ができなくなってしまう。  著者は 2018 年に、雇用問題をめぐって、あるテレビ番組を作りました。公務員の採用試験に、何百という求職者が応募するのですが、募集人数は極めて少なく、しかも採用までに四年間もかかる。こういう現実を報道すると、インドでは報道し...

■二つの公共空間:人格性と匿名性

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  カシミール・ヒル『あなたの顔はわたしたちのもの 顔認証 AI の誕生と、プライバシーの終わりの物語』高橋則明訳、実務教育出版   実務教育出版編集部さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    顔認証を AI によって高度化する技術は、人々のプライバシー権と両立しません。しかし現在、国家はこの技術を必要としているので、この技術を国家に売り込むベンチャー企業が参入して、産業が成り立つのですね。  クリアービュー AI 社は、顔画像の収集と分析をしています。それが人々のプライバシーをどの程度侵害したのかについての訴訟は、まだどうなるか分かりません。 おそらく訴訟の着地点は、社会の安定、経済利益、プライバシー、国家の安定など、いろいろな要求をバランスよく満たすものになるでしょう。 CCTV による顔認証も、その情報の収集によって、国家に抗議する人たちの社会運動を萎えさせるようになると、問題です。国家に抗議すると、強い監視下におかれる。このような社会は、自浄作用を持たないからです。 しかし中国では、監視カメラに捉えられない権利というものが、特権階級の一つの特権なのですね。「レッドリスト」の人たちは、監視されない自由がある。 この他、米国の社会運動団体「ファイト・フォー・ザ・フューチャー」は興味深いですね。ヨーロッパでも類似の団体があるようですが、顔認証禁止(「あなたの顔を取り戻せ」)のキャンペーンを行いました。 私たちの顔は、誰のものか。これは公共的な空間においては、公的なものであり、自分は自分の顔について、プライバシーを要求できない、と思われるかもしれません。しかし公共的な空間には、二つの種類があります。 一つは、各人が一人の人格として現れる公共空間です。もう一つは、匿名性をもった人間として現れる社会的空間です。後者の空間は、重要です。自分が特定されないことによって、コミュニケーションが円滑になることがあります。各人は、自分を守りながら人と関わることができます。  こうした匿名的なコミュニケーションによって、私たちは近代社会を繁栄させてきた、という面があります。この領域を、どこまで権利として守ることができるのか。この問題もまた、社会の安定、経済利益、プライバシー、国家の安定など、いろいろな...

■日本は1941年にハル・ノートを丸呑みすべきだった

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  橋爪大三郎『日本人のための地政学原論』ビジネス社   橋爪大三郎さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    地政学というのは、学問としては物足りないところがある。アカデミアに根を下ろしていない。あまりいい本がないし、荒っぽい骨組みにすぎない。だから社会科学やリベラルアーツで肉付けして、地政学の教科書を書いてみよう。そのような狙いで本書が生まれたのですね。  地政学的に言えば、日本は何よりも、戦争に負けた経験を活かさなければならない。最大の問題は、「ハル・ノート」( 1941 年 11 月 26 日にアメリカが日本へ提示した外交文書(覚書))を受け取った日本が、これを最後通牒と受け取って、開戦を決意したことです。本書によれば、このハル・ノートに書かれた要請を、日本政府は受け入れるべきだった、というのですね。  その内容は、   1. 日本は、中国、仏印から全面撤退する。   2. 日本は、蒋介石政権だけを認める。   3. 租界や治外法権を放棄するよう、日米が努力する。   4. 通商条約を結ぶ交渉を開始し、両国の資産凍結を解除する。   5. 日独伊三国同盟は、太平洋の平和に反しないと合意する。  以上の五つです。 ここで、「中国」に「満州」が含まれていない、という解釈が、ハル・ノートの草案に書かれていたのですね。米国は、満州について問題にしていなかったのだと。  「日本の軍部は、軍事を理解せず戦争が下手くそなうえ、政略も軍略も分からず、地政学を理解していない。だからハル・ノートを、前向きな提案だと受け取ることができなかった。では、どう考えればよかったのか。」 (218)  日本が戦争に負ければ、ハル・ノートの提案内容よりも、悪い結果を飲まざるを得ない。そして実際に悪い結果になった。もしこれが分かっていたのなら、日本はハル・ノートを丸呑みした方がよかった。当時の日本政府は、ハル・ノートを丸呑みしても、陸軍、海軍、そして米国に対して、うまく説得して政権を維持できたはずである。丸呑みした方が、日本の地政学的優位を保つことができたし、原爆を避けることもできたはずである。  このように考えてみると、地政学的に発想することは、戦争と平和の問題を考えるうえで、とても重要であ...

■自由民主主義にコミットできるか

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田中拓道『自由民主主義とは何か』ちくま新書   田中拓道さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   自由民主主義は、 1940-50 年代に最も用いられた言葉なのですね。その理念の起源は、近代の政治思想史と同様に、ホッブズやロックに遡ることができます。 現代においては、各種の民主主義論や、グローバル正義論において、この理念が問題になります。近代政治思想史において、中道的な議論はすべて、自由民主主義の理念の下に論じられてきた、と解釈できるでしょう。  ハーバーマスは「憲法パトリオティズム」を掲げましたが、同様に本書は、歴史的な次元で、自由と民主主義に対するパトリオティズムを掲げることができる、というのですね。これは発想として、ローティに似ています。  自由民主主義というのは、それ自体としては、感情的・信条的にコミットメントすべき対象ではないようにみえます。しかし歴史を振り返ると、人類は自由民主主義にコミットしてきたし、私たちはいわば復古的に、自由民主主義の再生を掲げることができる。  もっとも自由民主主義といっても、多様なので、この理念は一つのインパクトのあるイメージを提供するわけではありません。これはリベラリズムの場合も、民主主義の場合も同様です。具体的に、何をイメージしてコミットすればよいのか。  右派は例えば、天皇制、移民問題、国旗、国歌、などの対象にコミットします。左派は、これらを批判する以外に、何を積極的に擁護してコミットするのか。国会、選挙活動、 NPO 活動、ということになるのかどうか。そのようなことを考えました。

■最新の経済学史研究に学ぶヒント

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  本郷亮 / 松山直樹編『近現代経済学史入門 アダム・スミスからマーケットデザインまで』ナカニシヤ出版   松山直樹さま、吉原千鶴さま、恒木健太郎さま、ご恵存賜りありがとうございました。    マーシャルが生きた時代においては、しっかりした教科書と体系的な理論書を書くことが、重要な役割を果たしたのですね。経済学という学問をパラダイム化し、大学で経済学のステイタスを確立する。するとさまざまな大学で、経済学部を創設することにもつながった。つまり、当時の体系的な教科書は、学問の支配力を拡張する営みでもあったのですね。現在はしかし、そのような教科書を書く人が少ない。  マーシャルは、メアリー夫人とともに『産業経済学』 (1879) を出版します。そして『経済学原理』 (1890) を出版します。これらは半世紀にわたって、スタンダードなテキストとして読まれました。  ピグーの理論については、「正の外部性」の概念が、もっと論じられていいと思いました。政府が補助金を出したり、基礎研究を担ったり、流通過程を整備したりすれば、市場の作用をもっと活性化できる、という考え方です。政府が「投資する」と言い換えることもできます (72 頁 ) 。ですが、これは経済に投資するというよりも、経済社会ないし経済制度に投資する、ということでしょう。政府が市場のプレーヤーとなって投資するのではなく、市場を整備したり促進したりするための投資をします。  ドイツでは、ゾンバルトが 1930 年に『三つの経済学』を刊行しました。三つの経済学とは、「規整経済学(スミスの自由競争を正しいとみなす経済学)」、「秩序経済学(ミル、ケアンズ、メンガーなど自然科学をモデルにする理論)」、および、「理解経済学(ゾンバルトの立場)」です。  ゾンバルトは一般に、歴史学派とみなされていますが、ゾンバルトによれば、旧歴史学派(ロッシャー、ヒルデブラント、クニース)、新歴史学派(シュモラー)、最新歴史学派(ゾンバルト)を分けるべきだと言うのですね。  そして当時は、これらの三つとは別に、オルドー学派が登場します。本書の 128 頁によれば、ドイツのナチ党 (NSDAP: Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterparte...

■スマホ依存とAI時代の「日常消費」とは

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株式会社インテージ『なぜ日本人は、それを選ぶのか ? 』朝日新書   この本は、興味深いアンケート調査をーの結果を報告しています。いくつかメモを記します。   2019 年から 2024 年にかけて、テレビの利用時間はほとんど変化していないのに対して、パソコンの利用時間は約 20% 増加しました。スマートホンの利用時間は、約 40% 増加しました。人々はますます「画面」を見て過ごす時間が長くなっています。  スマホの場合、 SNS の利用時間は、全体の 27.3% 。 TikTok の利用時間は、 2024 年に平均で 1 時間になりました。動画については、 1 分以下の動画の視聴割合が、全体の 54.8% になりました( 2025 年)。 Z 世代 (1997-2009 年生まれ ) の 20 代の人たちで、 X のアカウントを持っている人は 6 割しかいません。しかも、 X の情報を信頼できると答えた人は、全体の 10% 強しかいませんでした (242, 250 頁参照 ) 。つまり若年層の人たちは、 SNS を利用しているのだけれども、同時に SNS はあまり信頼できないと考えているようです。  問題は、情報が断片的かつ大量になってきたことです。これはつまり、論理的に考えるよりも、直観的に判断することが増えてきたのではないか。偏った情報にさらされているわけではないとしても、断片的かつ大量の情報環境は、私たちの生活をどのように変えていくのでしょうか。  第四章第二節は、この本の理論的な枠組みを示しています。それは、「日常」や「ふつうの暮らし」という言葉の意味を考えるためのヒントになっています ( とくに 283-287 頁参照 ) 。   1. 多様化――選択の起点が「属性」から「文脈」へ移る。 例えば「 20 代女性」といった属性による消費選択は、一定の傾向を示さないようになりました。「 20 代女性」といっても、多様なのですね。消費の選択は各人のその時々の文脈に依存するようになってきた。 私たちにとって「日常 / ふつう」とは、属性ではなく、個々の文脈に埋めこまれた消費選択になっています。それは言い換えれば、自分の社会的な属性が後景に退くということでもあります。社会的属性から離れた「日常」が、社会的に構成されて...

■リカードウは新しいリベラル

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千賀重義 / 出雲雅志 / 佐藤有史編『リカードウ経済学再考 復元と創造に向けて』日本経済評論社   執筆者のみなさま、ご恵存賜りありがとうございました。   カール・ポランニーはかつて、リカードウもマルサスも資本主義の働きを理解していなかった、と批判したことがあります。二人は労働者の賃金水準が、生存可能なギリギリに押し下げられる傾向を「賃金法則」とみなした、というのです。しかしこのようなポランニーのリカードウ理解、マルサス理解は、誤っているというのですね。  リカードウの人生で特筆すべきは、ベンサムが進めた「クレストメイシア学校」 (1814-1821) に、深くかかわったことです。この学校は、貧民の子どもたちに、効率的な教育を提供しようと試みました。このような事業に、リカードウも寄付をしたのですね。 当時は社会的地位のある人たちが、慈善事業をしたり、あるいはそのような事業に寄付をすることが盛んでした。寄付をする際には、一人で寄付をするよりも、知人に手紙を書いて、寄付のお誘いをする。リカードウは、ミルに誘われて寄付をしたのですね。寄付を誘う文化というのは、いいですね。  この他、リカードウは、ブルームという人物が推進する幼児学校に寄付しています。リカードウはマルサスと比べると、進歩主義、新しいリベラルと言えます。次世代支援によって、労働の価値を高めることに意義を認めたのですね。興味深いです。(本書第五章、出雲雅志「リカードウの学校」参照)  

■現代リベラリズムはどこへ行く

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宇野重規 / 加藤晋 / 井上彰編『リベラリズム 基礎からフロンティアまで』東京大学出版会   執筆者のみなさま、ご恵存賜りありがとうございました。    リベラリズムといえば、ロールズの『正義論』や『政治的リベラリズム』などが有名です。本書はこうした内容に加えて、最新の議論を紹介しています。 現代のリベラリズムは、「自由」ではなく、「正義」を問題にしている。なぜ自由よりも正義のほうが重要なのか。そしてまた、自由や民主主義よりも「正義」のほうが重要なのか。これは、政治哲学の根本的な問題ですね。   J.S. ミルは『代議制統治論』で、「複数投票制」を提唱しました。まずすべての人に、一人一票を保障する。そして、高等教育の学位を保持している人や、専門職に就いている人には、追加で一票を与える。これはたんなる民主主義ではなく、能力主義(メリトクラシーではなくエピストクラシー)を反映した民主主義です。 ミルは、「質の高い効用」をもつことが、功利主義的な意味で「快楽の増大」であると考えました。ミルのこの考え方は、リベラリズムなのかどうか。「正義」の観点からいえば、リベラリズムではありません。しかし「自由」の観点から見れば、リベラリズムである、と言えるでしょうか。  民主的な議論の手続きと多数決は、それをうまく組織化すれば、よりよい政策を正当化できます。しかし、民主的に議論したとして、人々の正解率が、ランダムな正解率よりも低い場合は、どうでしょう。(この問題の立て方が間違っているでしょうか。) 民主主義は、多数決の政治が暴走しないために、リベラリズムのいう「正義」の理念によって、制約を受ける必要があります。また民主主義は、それがよりよい解答を導かない場合には、エピストクラシーによって補われる必要があります。このエピストクラシーは、ミル的な意味で、リベラリズムの一つの形態と解釈できるかもしれません。  この他、グレゴリー・マンキューのエッセイ「トップ 1% を擁護する」についての紹介があります。   N. Gregory Mankiw (2013) “Defending the One Percent,” Journal of Economic Perspectives, vol. 27, no. 3, S...

■マクロ経済学の教科書は進化していない

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  金子昭彦 / 田中久稔 / 若田部昌澄『経済学入門 第 4 版』東洋経済新報社   若田部昌澄さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    私がはじめて経済学の入門書を読んだのは、もう 40 年前でした。ですが本書の目次を見て、その内容があまり変わっていないことに驚きました。例えば第 12 章は、マンデル = フレミングモデルです。これは国際金融の理論であり、私が学部生のときにゼミで勉強した内容でもありました。とても懐かしい。 続く第 13 章は、総需要 - 総供給モデルの説明であり、最後は終章「今後の学習のために」で終わっています。  マクロ経済学というのは、この 40 年間、入門書のレベルでは、安定した内容を提供してきた。そしてその内容が、時代に取り残されているわけでもない。「パラダイム科学」として再生産されている。見方によっては「停滞している」とも言えますが、いったいどうなのか。この分野の学問の将来が気になります。

■国連は一時的ベーシック・インカムを推奨

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  法政大学大原社会問題研究所 / 岡野内正編『世界のベーシックインカム運動 歴史・現状・展望』法政大学出版局   永嶋信二郎さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    ベーシックインカムは思想史的にみて、右派と左派の立場からそれぞれ提起されているのですね。そして現在でも、右派の一部と左派の一部がそれぞれベーシックインカムを支持しています。しかし左派の方が、この政策に訴えることが多いですね。複雑な状況を理解しました。  イギリスにおけるベーシック・インカムの起源として、トーマス・ペインとトーマス・スペンスの二人がよく参照されます。ペインは、私有財産制と市場経済の下で、高齢・障害・出産・育児に対する普遍的な社会保障を提案します。これに対してスペンスは、土地を自治体のコモンズとして共有し、その地代から得られる利益を、普遍的に分配するという提案をしたのですね。いずれも 1797 年の提案であることも興味深いです。   20 世紀前半のイギリスでは、ミルナー『国家特別手当の計画』 (1918) や、リズ・ウィリアムズ『新しい社会契約』 (1943) など、ベーシックインカムの具体的な提案が構想されましたが、採用されませんでした。 1942 年の『ベヴァリッジ報告』に基づいて、社会保険制度が確立されていきます。  ベーシックインカムは、たんなる福祉国家主義ではなく、もっとラディカルな左派からの提案だったのですが、その場合の「ラディカル」の意味は、福祉の提供に際して、受給者の生活世界に対するミクロ権力を回避するということです。  現在、ベーシックインカムが、右派と左派に共通する関心になっている事情について、以下の文章を引用します。  「 BI[ ベーシックインカム ] は一般的なイメージとして、左派的ないしは社会主義的な傾向を持つ政党を含む運動団体や活動家などの間で見られる政策とされることが多いが、必ずしもそうではない。むしろ、英国やアイルランド共和国では、 BI をめぐって、いわゆる経済的新自由主義ないしリバタリアンの立場からの議論や保守系政党からの政策提起が存在し、具体化に向けた議論の推進力となっている点を見落としてはならない。」 (216) 南野泰義「新自由主義経済政策が生み出した社会的緊張への政治...