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■帝国型の生活様式を批判する

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    ウルリッヒ・ブラント/マークス・ヴィッセン『地球を壊す暮らし方 帝国型生活様式と新たな搾取』中村健吾/斉藤幸平監訳、岩波書店   岩熊典乃さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    監訳者あとがきによれば、この本はドイツで話題となり、 2017 年のペーパーバック専門書のベストセラー・リストに掲載されたのですね。現代の資本主義の問題点を掴んでいるのだと思います。   SUV の自動車に乗って、ガソリンをたくさん使って二酸化炭素を排出するような生活スタイルは、もはや望ましくないという本書の指摘はその通りでしょう。  また、緑の資本主義というものが、結局のところエコロジー危機に対して、有効に対処できないのではないかというのも、その通りだと思います。  では、私たちはどんな生活スタイルを築くべきなのか。本書はこの問題に、ストレートには答えていないですね。  本書は次のように述べています。  「私たちは多様なもろもろのオルタナティブを、連帯型生活様式を探求する過程の一環として理解するように提案する」と (207) 。  ではこの「連帯型の生活様式」とは何かといえば、それは環境に配慮した生活スタイルなのでしょうけれども、具体的には描かれず、次のように議論が進みます。  「難民たちの動きが引き起こす政治的な影響は、その他の異議申し立てや運動と同時に生じている。すなわち難民問題の影響は、家賃高騰と不動産投機への異議申し立て、ますます過重になり不安定になる生計労働およびその他の無報酬の労働形態に対する不満、階級とジェンダーとさまざまな出身の区分に沿って人々が日々経験している具体的な分業における不快さ、民営化と欧州レベルの緊縮政策とに対する批判、 TTIP と CETA と自由貿易政策全般に反対する運動、そして石炭火力発電所の建設への、食肉工場への、遺伝子操作を受けた種苗とそれによって生み出された食品への、エネルギー関連大企業への、そして性差別と女性に対する暴力への異議申し立てと同時に生じている。」 (208)  この記述は正しいと思いますが、ここで連帯型の生活様式が、どのようにすれば環境問題を解決するのかが明らかにされていません。もっと問題をストレートに、どのような生活をすればいいのか。これを探求すべきだと思いま

■思い入れのある経済学史研究

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    メアリー・ペイリー・マーシャル『想い出すこと ヴィクトリア時代と女性の自立』 松山直樹 訳、晃洋書房   松山直樹さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   メアリー・ぺイリー・マーシャル (1850-1944) は、夫であり経済学者のアルフレッド・マーシャルとの共著『産業経済学』 (1879) で知られます。 また彼女は、ケンブリッジ大学のウィリアム・ペイリーのひ孫で、 1871 年にケンブリッジ大学の一般入学者能力検定試験に合格しました。 1875 年より、ニューナム・カレッジの経済学講師を務め、 1877 年に、アルフレッドと結婚します。その後も、ブリストルやオックスフォードで教鞭をとりました。  本書は、メアリーの回想録であり、正確には、最初の三分の二が回想録の翻訳で、残りの三分の一は、舩木恵子さんと近藤真司さんによるそれぞれの解説と、訳者あとがき、人物一覧、年譜から成り立っています。つまり本書は、メアリーについて丹念に調べた、経済学史の研究書でもあります。  訳者の松山さんが撮影した、現地の写真も多数含まれています。とても思い入れのある本だと感じました。  メアリーは、女性としてはじめて、ケンブリッジ大学のニューナム・カレッジの道徳科学(現在の「社会科学」に相当する分野)の試験に挑戦し、卒業後、同カレッジで経済学を教えます。ケンブリッジで経済学を教えた、はじめての女性講師であります。 しかし、ケンブリッジ大学が女性の学位取得を認めたのは、 1947 年。戦後のことです。女性の参政権よりも後に認められたのですね。これは大学という組織が、イギリスでは進歩主義的な領域ではなく、社会全体よりも保守的で、政府によってコントロールできていなかったことを示しているようにみえなす。イギリスでは、学問というのはこれほど保守的な環境で営まれてきたということに、改めて驚きました。  本書掲載の写真で、メアリーが描いた風景画があります。すぐれた才能を示していますね。心の中に残したいです。  

■行政サービスの信頼を高めには

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    橋場典子『社会的排除と法システム』北海道大学出版会   橋場典子さま、ご恵存賜りありがとうございました。    事例として、元受刑者の N さんに対するインタビューが、とても印象に残りました。インタビュー当時、 40 代後半の方です。  「正直なところ、弁護士さんからこの団体( NPO 法人)の話を聞いたときは、なんだか胡散臭い話だなと。正直、そう思ったよ。怪しい話だな、とね(笑)。」  「熱心だったのさ。弁護士が。だから、半分義理みたいな感覚だったかな。」  「実は、最初はあまり乗り気じゃなかった。でも弁護士さんが熱心に、ここ( NPO 法人)が紹介されている新聞記事を持ってきてくれて。その新聞を見て、あぁちゃんとしているところかなと思ったよ。それでお願いすることにした。」・・・  この他、元ホームレスの方々に対するインタビューの紹介も、とても興味深いです。  法が信頼されるためには、 NPO 団体が、弱者を支援する必要がある。その際、ちゃんと相手の目を見て話すこと、そして家族のように受け入れること、こうした人間関係の構築が、法サービスを支えるということですね。  プロボノとして活動する弁護士の皆様に、大いに期待を寄せたいですが、しかしコストや情報提供の面で、壁にぶち当たっているのが現実です。これをいかにして解決していくか。これは法にかぎらず、行政サービス全般を、市民のみなさまに、いかに信頼して利用してもらえるのか、という問題でもあります。現場で働く方々の意識、思考態度、実践的なコミュニケーション術、モチベーションなど、こうしたさまざまな要素が、法の正当性を陰で支えている。そしてこれらの要素は「イデオロギー」という観点からも重要であることが分かりました。大いに刺激を受けました。  

■最小国家よりも小さい、最小連邦制国家

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    蔵研也『無政府社会と法の進化 アナルコキャピタリズムの是非』木鐸社   蔵研也先生、 2007 年にご恵存賜りました。そして先日は、シノドス・トークラウンジにご登壇いただき、ありがとうございました。     2007 年に、私なりにご高著にコメントを記しながら拝読したのですが、今回、再読して、この本のオリジナリティが、別の観点から見えてきました。  ノージックのいう「最小国家」が成立するためには、警察と裁判のサービスを担う「保護協会」が、すべてのメンバーを包摂することが必要です。もしすべてのメンバーを包摂していなければ、最小国家は不完全であるといえます。もし 2 割くらいのメンバーが包摂されていなければ、それはアナーキーと呼べるでしょう。  しかし本書は、アナーキーな社会で、いわば「最小連邦国家」のようなものが生まれる可能性を論じているのだと思いました。警察と裁判のサービスが、いくつかの民間企業や個人によって担われているとします。すると、それぞれ警察権力と裁判サービスにおいて、複数の結果が出るので、それを調停する仲裁会社が出現すると考えられます。 もしかすると仲裁は、うまくいかないかもしれません。しかし本書は、社会の進化の過程で、その仲裁がうまくいくと想定するのですね。 この仲裁は、それぞれの裁判サービスが前提とする法体系の、いわばメタレベルに法体系を築いていくでしょう。もし、ある仲裁会社がすべての仲裁サービスを独占するなら、法は、メタレベルで統合されたことになります。しかしこれは司法レベルで国家が誕生したといってもよいのではないでしょうか。もはやアナーキーな社会ではありません。 ここで仲裁会社は、いわば連邦制国家のようなものであり、個々の警察サービスや裁判サービスは、個々の国家を意味するかもしれません。 もし仲裁会社が、仲裁のための一つの法体系を発達させるのではなく、仲裁する際に、貨幣的な取引(正義のオークション)を求める場合はどうでしょうか。本書では、そのような正義のオークション制度について検討がなされています。 正義のオークション・システムでは、ある裁判で勝訴したいなら、相手の裁判サービス会社(あるいは個人)に、オークション・システムで合意が成立するであろう一定の貨幣額を支払うことになります。敗訴する側は

■日本の近代化と仏教の哲学化

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    藤田和敏『明治期の臨済宗 宗政家と教団経営』相国寺教化活動委員会   藤田和敏さま、ご恵存賜りありがとうございました。   明治時代、日本の仏教界はキリスト教に対抗すべく、仏教を「近代化」することを急務としました。 ( 池田英俊『明治の新仏教運動』昭和 51 年刊 ) その一つに、仏教を哲学的に基礎づけるという哲学の運動があります。代表的な人物は、井上円了です。著書『真理金針続々編』で、井上円了は仏教の「中観」を、ヘーゲルの弁証法を先取りしたものとして位置づけます。また井上は、近代国家の教育・哲学にふさわしい、仏教的な護国のあり方を構想したのですね。  あるいは真宗大谷派の境野黄洋は、新仏教運動を展開します。  さらに、「自発的結社」をベースとする仏教、「通仏教」的な結社が組織化されます。これは一つの宗派に偏らずに、仏教全般に共通する教説を教理とする結社の組織化であります。そしてこのような動きの中から、仏教各宗教会というものが組織されるのですが、しかしこれは 10 年足らずで解散してしまうのですね。  いずれにせよ明治時代には、仏教の近代化とアソシエーション化の動きがあった。これらは仏教の改革運動とされます。では当時、既成の宗派は、内部でどのような改革を試み、あるいは試みに失敗したのかということが、本書で語られています。これはつまり、宗教団体組織のマネジメント論ですね。いろいろな示唆を受けました。

■社会に対する二つの不公平感

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    水島治郎/米村千代/小林正弥編『公正社会のビジョン――学際的アプローチによる理論・思想・現状分析』明石書店   金澤悠介さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    社会に対する「不公平感」は、自分の利害に適合的な公正原理に基づくものなのか、それとも自分の利害を離れた視点から、社会を客観的に評価する公正原理に基づくものなのか。この二つの公正原理は異なります。前者は「自己利益正当化仮説」、後者は「客観的厚生判断説」と呼ぶのですね。  「自己利益正当化仮説」に立つと、もし自分が社会の中で不利な立場にあるなら、社会全体が「不公正」であるように見えるでしょう。反対に、自分が有利な立場にあるなら、社会全体が公正であるように見えるでしょう。  これに対して「客観的厚生判断説」は、自分の利害とは別に、客観的に社会の公正さを判断しようとします。これは学歴が高い人ほど、そのような客観的判断ができると考えられます。それゆえ、不公正を感じている人は、とりわけ学歴の高い人たちである、という仮説が成り立ちます ( 啓蒙効果仮説 ) 。  しかし 1990 年から 2000 年にかけての実証研究では、このどちらも支持されなかった、というのですね。  その後、潜在クラス分析を用いた金澤さんの成果では、 2005 年と 20015 年の不公平感が比較されています。  日本社会は、競争の自由のための条件が十分ではないから格差が生まれている、という不公平感と、格差が大きいから不公平である、という不公平感と、この二つの不公平感があります。興味深いのは、格差に不公平感を感じている人よりも、競争の自由の条件がないことに不公平感を感じている人の方が、多いのですね。 2005 年では、それぞれ 20% と 32% 、 2015 年では、それぞれ 17% と 24% となっています。 2015 年の分析では、この二つの不公平感のバランスを重視する人たちが、 39% いる。格差が大きくならない範囲で競争を求めるが、それが現在の日本社会では確保されていない、とみるタイプの人たちです。競争社会が格差を生むことを単純に批判するのではなく、つまり競争社会に対して単純に反対するのではなく、競争は大切であり、しかしそれが格差を生みすぎないための条件を求める人たちが多い

■「よい趣味」よりも「真剣なレジャー」

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    宮入恭平/杉山昂平編『「趣味に生きる」の文化論』ナカニシヤ出版   神野由紀さま、ご恵存賜りありがとうございます。   本書は、「シリアスレジャー」と呼びうるさまざまな現象を検討しています。シリアスレジャーとは、専門的な知識やスキルを用いて継続的に行うものであり、それは「本気」で「真剣」で「真面目」で「ひたむき」であるようなレジャーです。これに対比される営みは「カジュアルレジャー」であり、それはすなわち、専門性はなく、場当たり的で、気楽で、リラックスできるようなものです。 おそらく多くの趣味は、この二つの要素を兼ね備えているのでしょうけれども、その「シリアス度」を高めていくと、どうなるのか。人間の生き方の問題として、興味深いです。   1970 年代以降、消費文化が発展して、「ホビー(趣味)」の数が爆発的に増えます。するとホビーは、同じ志向をもった人たちをつなぐものとなります。極めて限定された、私的な集まりが生まれます。ホビーを共有する人たちのあいだでは、「よい趣味」という教養の理念は成り立たず、グッド・テイストという言葉も成り立ちにくい状況になるわけですね。  その一方で、アマチュアの趣味が発展すると、こんどはその趣味でもってお金を稼ぐ人たちが出てくる。趣味といえども資本主義の発展とは無縁でなく、資本主義の観点からすれば、私たちが「よい趣味」を築くよりも、市場経済と結びつくような「文化資本」を担う方が望ましいのでしょう。成熟した資本主義社会においては、「ホビー」は資本の観点から、さまざまな方向に発展していく。そしてこの「ホビー」のなかから、「シリアスレジャー」もまた生成し、発展していくのでしょう。文化的な成熟よりも、真剣さの倫理(精神)に焦点を当てた本書は、その着眼点がとても面白いと思いました。  

■他人の自由はリスク、自分の自由は負担

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    那須耕介『社会と自分のあいだの難関』 SURE   那須美栄子様、ご恵存賜りありがとうございます。   那須耕介さんの新たな単著の刊行を、心よりお慶び申し上げます。 一気に拝読しました。そして、いろいろなことを考えさせられました。 耕介さんが去る 9 月に亡くなられ、それから約二か月が過ぎて本書が刊行されました。本書は耕介さんのセミナー(講義)であると記されていますが、実質的には対談であり、内容は、黒川創さんほか、 SURE に関わる方々との対談、そのなかで耕介さんが自分の考えをさまざまに語るものです。 2021 年の 5 月に 1 回、 7 月に 2 回の対談がなされ、全 3 回の対談から、本書が生まれています。濃密な内容であり、耕介さんは死の直前まで、明晰に思索していたことが分かります。表紙の絵もとてもいいですね。  耕介さんによれば、最近人々は、「他人の自由はリスク」であり、「自分の自由は負担」であると思うようになってきた。自由よりも安全が欲しいし、自由よりも幸福が欲しい。人々はますますそのように思うようになってきたのではないか。またそれを受けて、政府はますます生活に介入するようになった。それでも、できるだけ「小さな政府にしたほうがいい」というのが耕介さんの主張なのですね。  考察として興味深いのは、「紛争処理の三つの理念」 (122 頁以下 ) です。「真実」と「和解」と「正義」の三つが、三つ巴の構造になっていて、どれかを徹底的に追求すると、どれかがおろそかになる。重要なのはバランスで、厳罰と恩赦のバランス、事実告白と司法取引のバランス、対立を生みかねない真実の解明と和解のバランス、こうしたバランスを考えないといけない。その場合の政治的なバランス感覚はみなさん異なるでしょうが、このバランスのとり方について、もっと理論的に考察する余地があるだろうと思いました。問題提起として興味深いです。  また耕介さんは、社会契約論が重要だと述べています (184 頁以下 ) 。社会契約論というのは、社会を原理的に正当化するための理論的な道具です。それにはしかし、多様な理論があって、一つの理論に対しても多様な解釈が出てくる。それでも社会契約論というのは、たんなる言葉遊びではなくて、「どんな人も、生きていく上でぶつかる問題とし

■どんな投票制を採用すべきか

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    松本雅和『公共の利益とは何か 公と私をつなぐ政治学』日本経済評論社   松本雅和さま、ご恵存賜りありがとうございます。    大変すぐれた教科書(テキスト)だと思います。簡潔でありつつ、内容が濃く、知的に興味深い事柄がたくさん詰まっています。  投票で、「一票の測られ方」の正統性を考えるとき、できるだけ死票を無くすのか、それとも、政権を担う政党の交代可能性を高めるように配慮するのか。民主主義の理念の根幹にかかわる問題が生じますね。  これと、一票の「インテンシティ」をどのように政治に反映させるか、という問題もあります。たとえば、選択肢(立候補者)に対するランキング評価(誰が一番よくて、誰が二番目によくて、というランク)を投票できるようにするとか、あるいは複数票を用いて、人々は各自、分散して投票できるようにするような仕組みです (127) 。この点で、会社法 89, 342 条が参照されている点が、参考になりました。  こうした複数投票制を実施する場合、人々が戦略的に行動することが問題となりますね。人々は、「本心」としては「あいまいな意思」もっているに過ぎないかもしれません。ところが投票する場合、そのようなあいまいな意思を裏切って、熱狂的な仕方で、一人の候補者にすべての複数票を投じるかもしれませんね。 こうした戦略的な投票は、もちろん一票の場合にも生じるでしょう。自分としてはどちらの候補者でもいいのに、どちらかに投票する、ということが起きるわけです。

■アイン・ランドの思想は利己主義と異なるセルフィッシュネス

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    アイン・ランド『セルフィッシュネス 自分の価値を実現する』田村洋一監訳、オブジェクティビズム研究会訳、 Evolving   田村洋一様、ご恵存賜り、ありがとうございました。   アイン・ランドの翻訳です。この本は、以前にも翻訳が出ていましたが、今回、ナサニエル・ブランデンが執筆した部分を、はじめて訳して収録した、ということですね。これは 2,5,6,16,18 章であり、全体としてかなりの量になります。 アイン・ランドの思想を知りたいのであれば、以前の翻訳書で十分ですが、しかしブランデンは、アイン・ランドの弟子にして愛人であり、彼が何を書いているのかは興味深いです。 実際に読んでみると、「セルフィッシュネス」という言葉の意味の広がりを、よく理解することができました。ブランデンによって、アイン・ランドの思想がうまく語られているという面があります。 例えば、セルフィッシュネスとは道徳であり、それは、奇跡や啓示や禅の「無心」など、現世的な言説から離れたところに求める道徳ではないということですね。 あるいは、社会のために奉仕するとか、自己犠牲を払うというのは、セルフィッシュネスの倫理に反するけれども、しかし「愛する人のために自己を犠牲にする」ことは、セルフィッシュネスの道徳であるということですね。 「より高い価値」と「より低い価値」があるとき、「より高い価値を犠牲にしてはならない」というのも、セルフィッシュネスの道徳であるとされます。ランドのいう「セルフィッシュネス」は、いわゆる「利己心」とは異なりますね。 決まり切った定型的な仕事をしている人は、自尊心を欠いており、その意味で、セルフィッシュネスの道徳をもっていないのですね。 セルフィッシュネスの道徳は、人間にとって知的に成長する能力が無限の発展の可能性を与えることを教えてくれます。これもまた、いわゆる「利己的」という言葉の意味とズレていますね。 およそ以上のようなことを、ブランデンは主張しています。リバタリアンとして知られるアイン・ランドの人間観を、ブランデンがこのように解説しているわけですが、これは私が「成長論的自由主義」と呼んでいる思想と近いです。自分の中の内在的な高次の価値を追求せよ、ということになるでしょう。 いわゆる利己的な人とは、このような

■貨幣ポイントが溜まる「新しい公共」に向けて

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    西部忠 『脱国家通貨の時代』秀和システム   西部忠さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   本書の結論部分は、「グッド・マネー」と呼びうる最近の地域通貨について紹介しています。地域を活性化するために、 1% のプレミアムを付けて地域通貨を発行する一方、一年後には減価するように工夫する。するとその貨幣は地域経済の活性化につながります。加えて、このような地域通貨は、その地域のコミュニティ・アイデンティティ意識を高め、人々の帰属感を高めることにも資するでしょう。  問題はしかし、現在の法制度の下では、このような地域貨幣は、 3 年間以内の流通に限定しなければならないという、期限がついているのですね。この期限を延長するためには、特別な申請をして承認される必要がある。ですが最近では、そのような事例はあまりないようですね。  日銀の貨幣とともに地域通貨が流通すると、これは貨幣の複数化と呼ぶことができます。しかし地域通貨の価値が日銀貨幣にペッグしているかぎり、貨幣は複数になっても、取引コストはあまり高くないでしょう。地域通貨がデジタル貨幣になれば、取引コストはさらに下がるでしょう。 はたして「脱国家通貨」といえる地域通貨、つまり日銀貨幣にペッグしない地域通貨の発行が許される日が来るでしょうか。そのような脱国家化された地域貨幣が、コミュニティ意識を高めるという段階が訪れるでしょうか。訪れたとして、それはどのような経済効果をもたらし、どのような意味での「グッド・マネー」になるでしょうか。そのようなことに関心がわきました。  いまのところ、ある地域で、携帯電話のあるアプリを利用してたくさん歩いたことを証明すると、地域通貨のポイントが溜まる、という取り組みがあるようですね。これは地域の観光を刺激するもので、つまり地域にお金を落としてくれるであろう観光客に、観光することに対して貨幣的なインセンティヴを与えるものですね。  こうした発想を拡大して、図書館や体育館を利用したら貨幣ポイントが溜まるとか、そのポイントを誰かに贈与できるようにするとか、あるいは SNS と連動させてローカルな言説を盛り上げていくとか、いろいろなアイディアが生まれます。

■音楽通のための情報サイト4選

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    那須耕介さんと音楽 (1)   那須耕介さんが亡くなられて、 2 か月が経ちました。 改めまして、心よりご冥福をお祈りいたします。 先日、那須さんの友人の伴智一さまから、那須さんが利用していた音楽新譜情報サイトについて教えていただきました。これらのサイトは、私が那須さんと情報共有していたものとぴったり重なるものでしたので、以下に記します。   http://taiyorecord.jugem.jp/ 大洋レコード。東京の神楽坂にある CD のセレクトショップです。主に、ブラジルや、アルゼンチンなど、ラテンアメリカ諸国のマイナーな輸入盤を扱っています。那須さんはこの店の店主と仲良くなって、店主のおすすめの CD をいろいろ買っていたようです。通好みで、音楽性を徹底的に追求した CD が多いです。最初はピンと来なくても、聴き込む価値があるような CD を、私は那須さんからいろいろご紹介いただきました。   https://musica-terra.com/ 世界の音楽情報 Música Terra (ムジカテーハ)。比較的新しいサイトです。大手音楽情報メディアで取り上げられることの少ない、世界中のすぐれた音楽を紹介することを、サイトの理念としています。 もちろんタワーレコードや HMV などの CD ショップ・サイトでも、かなり多くの CD 情報がデータベース化されています。しかしこれらのサイトにも載らない、もっとマイナーな CD で、音楽的に優れたものがたくさんあるのですね。あるいは CD 化されていないものもたくさんあります。 YouTube でもほとんどアクセスされていないような音楽ですが、すばらしい音楽を徹底的に紹介しています。感謝です。   http://www.rootsworld.com/rw/ ルーツ・ワールド。世界の民族音楽の CD を紹介するサイトです。こちらも徹底的に紹介しています。那須さんは、よくこれだけ多くの情報を検討して、吟味していなあと関心します。このレベルまで聴き込めば、きっと世界に溶け込むことができるでしょう。   https://worldmusiccentral.org/ ワールド音楽セントラル。このサイトは、私から那須さんに紹介したものかもしれま

■どんな憲法改正でも、成立すれば合法なのか

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    ヤニヴ・ロズナイ『憲法改正が「違憲」になるとき』山元一/横大徳聡監訳、弘文堂   瑞慶山広大さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   世界中の憲法改正を比較分析するという、憲法学の新しいアプローチですね。若手憲法学者による、体系的な成果であります。  かりに日本で憲法改正が成功した場合、その改正された憲法を、司法は違憲立法審査によって棄却することができるでしょうか。通説というか、一般的な憲法解釈によれば、それは難しいのですね。苫米地事件・最高裁大法廷判決 (1960) において示された見解では、憲法の改正は、最終的には、国民の政治的判断に委ねられているのだと解釈するのが正当なのですね。  しかし本当にこれでいいのか。日本においても、理論的・制度的に、憲法裁判所を創設するための知的資源の蓄積と構想案をめぐる議論を始めないといけないですね。 むろん、それよりもまず、日本人は、憲法改正の検討を、積極的に始めないといけない。フランスでは、 1791 年から 1990 年までの 200 年で、 20 回の憲法改正がありました。さらに 1990 年以降、現在までの約 30 年間に、 19 回も憲法を改正しています。二年に一回以上のペースですね。  こうした憲法改正は、ポピュリズム政治によって悪しき方向に向かう可能性もあります。そのような可能性を防ぎつつ、健全な仕方で憲法改正のための制度的・立憲的な基盤を作っていくことが重要ですね。  ホンジュラスでは、大統領の任期を、一期に限定することが憲法に記されています。ホンジュラスの国会は、これを改正する立法を成立させました。ところが、ホンジュラスの最高裁判所は、この立法を「無効」としたのですね。 その後、最高裁判所の裁判官のうち四名が議会によって解任されるということが起きます。これはもう、立法と司法の争いですね。このような争いを調停する機関はありません。最終的には、選挙で国民の判断を仰ぐ、ということになるでしょう。  

■民主主義は不可能、されど民主主義を支持する

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  小峯敦編『テキストマイニングから読み解く経済学史』ナカニシヤ出版   斉藤尚さま、ご恵存賜りありがとうございました。   テキストマイニングのアプリケーション・ソフトを用いると、ある本のなかで、あるいはさまざまな媒体のテキストのなかで、どんな言葉が多用されたのか、またどの言葉とどの言葉のあいだの距離が近いのか(関係性が密接なのか)について、データ分析をすることができるのですね。このアプリを用いて、言葉の頻度や関係性の歴史をたどることは、意義がありますね。例えば「豊かさ」という言葉が、いつ頃から使われ、いつ頃から使われなくなったのか。またこの言葉が、他のどんな言葉といっしょに使われていたのか。その変遷について検討してみると、社会の変化が見えてくるでしょう。 今回、ケネス・アローの見解の変化について、テキストマイニングで調べてみたということですが、こうした量的な分析は、結果として、アローの見解の質的の変化を証明することには向いていないようですね。  アローは、自らの社会的選択理論において、民主主義の不可能性を証明したにもかかわらず、その当時から独裁には反対で、社会的選択理論に基づく民主的な決定に、思想的には賛成していました。ということは、民主主義に対する「理論的な否定」と「思想的な肯定」が、同居していたことになります。それがなぜなのかが、まず不可解です。  いずれにせよ、アローはしだいにロールズ流の考え方を思想的に受け入れるようになります。それはアローのなかで、理論的な探究の結果としてそのように変化したのか。こうしたことを検討するには、テキストマイニングには限界があるでしょうが、興味深いテーマであります。

■ポーコックとオークショットの相克

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    岩井淳/竹澤祐丈編『ヨーロッパ複合国家の可能性』ミネルヴァ書房   佐藤一進さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    歴史家のポーコックは、ブリテン人としてのアイデンティティを重視して、イギリスが 1973 年の段階で、ECに加盟しないほうがよかった、と考えたのですね。そしてそのような関心から歴史を叙述し、また「主権」の概念を規定しているのだと。  ポーコックによれば、主権とは、「起源、すなわち、その権威や正統性の淵源と持続を確認し、ならびに、それが自らの結びつけるナラティヴを構成する要素としての重要な出来事や経緯を確認する」という、そういう機能を担っているのですね。  このようなポーコックの観点からすれば、ECのような歴史の厚みのない超国家機関に、国の主権の一部を移譲するということは、ありえないのでしょう。厚みのあるナラティヴを構成できないですからね。  しかしオークショットは、実はこのような歴史叙述の方法には反対で、というのもこのようにアイデンティティのナラティヴという関心から歴史を叙述すると、降霊術のような仕方で過去を見るようになってしまうからだというのですね。 歴史の起源探しは、歴史叙述の方法としては望ましくない。歴史の起源探しは、それ自体が「実践」であり、実践哲学の観点から正当化される必要がある、ということでしょうか。オークショットであれば、ECのような機関を新たに構築して正統化する際に、理論ではなく実践知が重要であるから、それほど理論的に構想する必要はない、というかもしれません。主権の概念を、歴史のナラティヴから解放しつつ、しかし実践知に裏づけられた仕方で確立するためには、何が必要なのか。それが問題であるように思いました。

■表現の自由をめぐる裁判

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    寄川条路編『表現の自由と学問の自由――日本学術会議問題の背景』社会評論社   寄川条路さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   序章の末木文美士(ふみひこ)論文「「学問の自由」は成り立つか」の記述で、はじめて以下のことを知りました。 明治学院大学で起きた「表現の自由」をめぐる裁判(第一審、東京地方裁判所、寄川教授の解雇を無効とする判決、慰謝料の請求は認めず)は、その後、双方が控訴して、東京高裁で裁判の審議が続いていました。しかしその審議の過程で、 2019 年 11 月に和解が成立したのですね。 和解条件は、大学側が無断に講義を録音していたことを謝罪する一方、寄川先生は解決金をもらって退職する、ということだったのですね。寄川先生としては、こうした和解による解決は必ずしも本意ではなかったようですが、事情の詳細については公開されていないということですね。裁判が長引くと、双方にとって不利な結果になる。そのような判断があったのではないかと推測します。  はたして大学における講義内容は、通常の「表現の自由」の範囲を超えて保護されるべきなのか。例えばある会社員が、自社の理念を批判したら、会社にとって不利益な行為をしたという理由で、処分を受ける場合もあるでしょう。「内部告発」としての「表現の自由」については、すでに一定の手続きを経なければ保証されないようになりました。「学問の自由」という理念は、個々の大学の自治の自由として解釈されることがあります。この場合、大学の自治の権利という観点から、大学は、大学の理念に賛同しない教員を解雇することもできるでしょう。  これは私の素人的な推測であり、誤りがたくさんあるのではないかと恐れますが、「表現の自由」「学問の自由」、そして無断で録音されないという「プライバシーの権利」について、私も自分なりの考え方を築いていく必要があります。引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。

■麻薬を合法化できる理由

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    ヨハン・ハリ『麻薬と人間  100 年の物語』福井昌子訳、作品社   福井昌子様、作品社様、ご恵存賜り、ありがとうございました。    本書は、ニューヨークタイムズ集計の「年間ベストセラー」で、宣伝によれば、ノーム・チョムスキーは「読み終えるまで、本から手を離すことができなかった」ということです。チョムスキーを唸らせるとは、インパクトありますね。かく言う私も、麻薬に対する見方を変えなければならないと思いました。  「お酒の自由」と「性表現の自由」は、これまでリベラルな陣営が勝ち取ってきた政治的成果です。お酒の自由は、経済的自由主義(リバタリアニズム)によって支持される一方、性表現の自由は、政治的自由主義によって支持されてきました。それぞれ異なる自由主義による支持ですが、広い意味では自由主義による支持です。  そしてまた、「麻薬」や「カジノ」も、経済的自由主義によって支持しうるでしょう。しかしこれに対して、政治的自由主義の立場は、この問題に対してあまり寛容ではなかったように思います。一つには、麻薬やカジノは、人間の自律を奪うようにみえるからでしょう。市民的な判断力を形成するための営みとは言えないからでしょう。  しかし本書を読むと、麻薬やカジノは、政治的自由主義の観点からも、寛容という理念に照らして合法化してよいのではないかと思いました。  まず、麻薬の接種で死ぬ人は、ほとんどいないのですね。麻薬を禁止した場合、その抗争で死ぬ人がいます。つまり、警察が取り締まりを強化すればするほど、死者が出るのであり、反対に、取り締まらなければ死者はほとんど出ない、というわけですね。  それから、麻薬のような陶酔性のあるものは、人間だけでなく、他の動物も摂取していることが分かってきたのですね。人間の場合、麻薬で依存症なる人は 1 割程度で、しかも依存症になる原因は、麻薬そのものというよりも、その人の精神状態にあるようです。例えば、生きる目的が見つからず、内面的な空虚さを抱えると、麻薬に依存してしまうわけですね。ということは、人生の空虚さこそ、社会的に解決しなければならないですね。 麻薬を取り締まると、かえってギャングに資金が流れ、殺人も増える。ならば麻薬を取り締まらないで、内面的な空虚さを抱えている人たちに、自尊心の基盤を提供す

■社会学の突破力を示す記念碑的な論稿

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    大澤真幸『コミュニケーション』弘文堂   大澤真幸さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    重要な論文集です。とくに、本書の最初に掲載されている論稿「コミュニケーション」は、大澤社会学のまさに最高の果実の一つであると思います。これを読んで私は、これこそ後世に伝えたい、現代の知の贈り物ではないか、という感覚を、ひそかに抱きました。独創的で、しかも知の喜びを与えてくれます。それだけでなく、社会の深層にある重要な、しかしまだ言語化されていない不気味なものを解明することに、考察の力のみで迫っていくことのすばらしさを伝えています。社会学の「突破力」というものを示している、記念碑的な論稿であるように思います。(私はそのように友人に語っています。)  この元になる論稿は、すでに 30 年前に書かれています。その後、ルーマンの理論的発展や、語用論などの新しい知の動きがあり、そうした知の成長に応じて、全面的に書き直しているということで、これはなるほど、 30 年に渡る、熟成された論稿であると思いました。  双子のジェーンとジェニファーは、互いに相手を自分の分身とみなして、コミュニケーションすることができます。しかし二人は、外部の他者とのコミュニケーションができません。何が欠落しているのか。それがコミュニケーションのカギを握る、というわけですね。  それは、二人のあいだで、優位と劣位の関係が、いわば八の字になるようにぐるぐる回っていて、どちらかが超越的な相手として現れることがないということですね。  私たち人間は、超越的な他者を受け入れることができないと、コミュニケーションをうまく成立させることができない。二人は、人形遊びをしたり、小説を書いたり、愛の脅迫状(手紙)を書いたり、放火をしたり、盗みをしたりする。そうした行動を、本論文は、超越性の観点から読み解いています。  コミュニケーションが成り立たないのは、他者を受け入れないことではなく、自分がある他者をそのまま受け入れて、他者の現実を純粋状態のまま生きるという、そういう行動に原因がある。逆に言えば、コミュニケーションというのは、根本的なところで、他者を受け入れない、隠ぺいする様式である、ということですね。それによって社会が成り立つ。  いわば他者が二重化して、自分にとっ

■室町時代の職業仏教論

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    芳澤元『足利将軍と中世仏教』相国寺研究(十)   芳澤元さま、ご恵存賜りありがとうございました。    とくに最後の回を、興味深く拝読しました。日本の中世社会には、寺社の外にも、在俗宗教が溢れるようになる。その担い手として、居士(こじ)、在俗出家者、世間者(せけんじゃ)、という三つの類型を区別できる、というわけですね。  相国寺は、都のど真ん中に坐禅道場を築いたわけですが、それは足利義満が、政治の中心に身を置きつつ、隠遁願望を抱きつつも、宗教とのかかわりをもちたいと考えたからなのですね。  おそらくこれは、義光にとって、自分の精神のニーズに基づくだけでなく、しだいに、現世での職業を通じて仏道を修めたいという、現世内宗教への関心とニーズが高まったことに対する、社会的な対応でもあったでしょう。  これは、ウェーバーが論じる初期のプロテスタンティズムの実践と、パラレルになっていると思います。日本の中世、室町時代には、あまりすぐれた僧侶が生まれず、その意味で仏教は世俗化して衰退したのだ、と言われますが、実際には、日本中世の仏教は、世俗化して弱まったのではなく、世俗の人々の家業を仏道と一体のものとして捉えるという、積極的な存在意義があったわけですね。  もちろんこうした世俗社会のニーズに応じる宗教は、結果としてその精神性を弱めていくこともあったでしょう。室町時代の仏教は、「職業仏道論」を生み出し、世俗社会の宗教化と同時に、経済の活性化をもたらしました。しかし当時の仏教による経済の活性化は、プロテスタンティズムのように、近代化を推進するための原動力にはなりませんでした。ただそれでも、日本における近代化の前史として、改めて職業仏道論を位置づけることは、重要であると思いました。

■広告費はGDPの1.2%。

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    間々田孝夫/藤岡真之/水原俊博/寺島拓幸『新・消費社会論』有斐閣   間々田孝夫さま、藤岡真之さま、水原俊博さま、寺島拓幸さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。     20 年以上前に書かれた本の「改訂版」ですね。 今回、新たに三名の執筆者が加わり、内容をアップデートしています。この分野の教科書として、網羅的であり、情報が満載です。  消費社会論の一つのテーマとして「広告をどう考えるか」という問題があります。広告に惑わされずに、主体的かつ自律的に商品を選ぶにはどうすればいいのか。そのためには、消費のプロモーションに対して、批判的に捉える思考力と知識を身につけることが、「消費社会論」の一つの重要な任務でもあります。   2019 年の時点で、日本における広告費の総額は、 7 兆円近くにのぼり、これは GDP の 1.2% 程度になる、ということですね (36) 。  平均して 1% 程度ということであれば、広告費というのは、それほど大きくはないように思われます。けれども商品によって広告費は異なり、広告費の割合が高いものもあるでしょう。あるいは広告間の競争が生じた場合に、多額の広告費を投ずることができなかった企業ないし商品は淘汰される、ということも起きるでしょう。消費者としては、こうした広告費の「ムダ」に気づいて、もっと賢く商品を選ぶ消費行動を身につけないといけないでしょう。 そのために必要な対策は、一つには、広告費の公開を法的に義務付けることかもしれません。あるいは、消費者は「広告」よりも「口コミ情報」を頼りにして、つまり、ユーザーたちが自発的に商品を評価するというボランティア的な言説を頼りにして、商品を選ぶことも、対策の一つになるでしょう。さらに言えば、「よい消費社会」とは、企業が広告費をかけずに、広告はすべて、消費者が自発的に担うような社会であるかもしれません。そのようなことを考えてみました。

■新自由主義に代わるフーコー的な理想社会とは

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    重田園江『フーコーの風向き』青土社   重田園江さま、ご恵存賜りありがとうございました。    本書の第九章は、フーコーの統治性研究で、オルドー派の新自由主義がテーマになっています。だいぶ前になりますが、私たちがまだ大学院生だったころ、研究会でご研究の草稿を議論したことを思い出しました。  フーコーは統治性の観点から、新自由主義を肯定したのか、それとも否定したのか。福祉国家の統治性(ミクロな権力)に批判的だったフーコーは、福祉国家を批判する新自由主義の統治性を肯定した可能性があります。しかしこの問題は争われるわけですね。  フーコーはもっとアナキストであり、つまり、あらゆる制度的統治性に反対して、自己統治という理想を対置している。これに対して新自由主義は、福祉国家と同様に、統治のテクノロジーの一つです。統治のテクノロジー全般に反対するなら、統治のテクノロジーが存在しない社会を理想とすることになる。それはどのような社会になるのか。たくましいイマジネーションが必要です。  本書の最後の「コラム」で述べられているように、新自由主義に代わる新しい統治の構想は、いまだ出現していません。経済のグローバルな自由化がもたらす弊害への反発やリアクションを超える、新たな統治構想は、いまのところみられない (347) 。  フーコー的な「自己統治」の理念を、新しい社会構想にとり入れるとすれば、それは例えば、ベーシック・インカムを無条件に保証して、それ以外の制度(教育・医療など)をすべてオプションにとどめるような社会が望ましいかもしれません。最低限、消費税のみを支払えば、ベーシック・インカムがもらえる。しかし各種の保険や年金の積み立ては強制しないし、促進もしないという具合に。  このような社会は、本当に自己統治を可能にするでしょうか。このような制度を積極的に描いてみると、「いやそれはフーコー的な理想ではない」という感じもします。このあたりの議論に関心を持ちました。