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■日本企業はほとんど最下位。やる気のない社員は7割

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新居佳英/松林博文『組織の未来はエンゲージメントで決まる』英知出版 新居佳英さま、松林博文さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。 2017 年のギャラップ調査で、驚くべき調査結果が出ました。日本の企業では、「やる気のない社員が 7 割もいる」というのですね。 従業員のエンゲージメント(これを日本語で「やる気」と解釈します)についての世界各国の調査ですが、「熱意あふれる社員」は、アメリカで 32% 、日本で 6% 、という結果です。日本のランキングは、 139 か国中、 132 位でした。ほとんど最下位ですね。  また、企業内に諸問題を生む「周囲に不満をまき散らしている無気力な社員」の割合は 24% 、「やる気のない社員」は 70% に達したと。  やる気というか、仕事への熱意度を聞かれて、「はい自分は熱意があります」と答える人はなるほど少ないと想像できますね。日本人は、幸せでも「はい自分は幸せです」とは答えないですからね。この文化的な違いを、どのように考えるかですね。  「やる気のない」という表現はちょっと違うように思いますが、熱意がなくても日本人は仕事をこなすほうでしょう。しかし会社組織にコミットメントするよりも、もっといい生き方があるのではないか、コミットメントすべき対象が他にもあるのではないか。 現代の日本人は、そういう関心を持つようになったのかもしれません。それとも私たちは、社内のコミュニケーションを増やせば、会社組織にコミットメントできるようになるのでしょうか。「熱意あふれる社員」を育てるにはどうしたらいいのか。経営学で探求すべき重要な問いなのですね。

■シュンペーターの方法論をめぐって

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只腰親和/佐々木憲介編『経済学方法論の多元性』蒼天社出版 執筆者の皆様、ご恵存賜り、ありがとうございました。  シュンペーターは、『理論経済学の本質と主要内容』と『経済発展の理論』のあいだで、自分の方法論的な立場を変更したのか、という問題があります。この問題に対するマハループの解釈は誤りである、と塩野谷祐一は指摘しましたが、けれどもその塩野谷の解釈も、誤っているというわけですね。(佐々木論文)  しかも、『経済発展の理論』の第一章と第二章以降では、やはり方法論的な視角が異なっている。第一章では、経済状態が「静態・循環」をなしている場合を想定していて、そこでシュンペーターは「相互依存関係の分析」を静学と呼び、それ以外を「動学」と呼んでいる。これは『本質』の方法論を基本的に踏襲しています。  これに対して同書の第二章以降では、経済状態が「動態・発展」をなしている場合を想定して、そこではすべての方法が「動学」とみなされる。  企業者は経済に内在しているけれども、その意味では他のプレーヤーと相互依存の関係にある。しかし、企業者の動機や制度は、「静態」の範囲の外部にある、と解釈するわけですね。何が経済の内生的要因で、何がその外生的要因であるのかは、分析の視角に依存するので、重要な点は、分析の視角を示すことにあるのでしょう。

■私たちの資本主義は富を生まなくなってきた

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沖公祐『「富」なき時代の資本主義』現代書館 沖公祐さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。  とてもいい本です。  アメリカ国内で獲得された総利潤のうちで、金融部門が占める割合は、第二次世界大戦直後は、 9.5% でした。ところが 2002 年にはこれが 41% になっている。まさに現代の資本主義は、金融によって利潤が生みだされているわけですね。  しかし、現代資本主義の問題点は、「富」というものを、資本主義的な仕方で生産することが困難になっている、ということ。 例えば私たちは、 YouTube などで無限に多くのすぐれた音楽や映像を享受しています。これは富です。でもそこには、ほとんど富を貨幣で交換するという「資本主義の論理」が働いていません。もちろん、月額のネット接続料は必要です。しかしそれを支払いさえすれば、私たちは無限に多くの富を享受することができる。富は、それを作る側も、とくに大儲けしたいという理由で作っているわけではない、儲けなくてもいい、そういう人が増えています。富はもはや、「労働の対象化された商品」という形態をとっていない。これはつまり、富は資本主義的に生産されていない、ということですよね。 では「富」とはなにか。それはすなわち、人間の創造的な素質の表出であります。富をこのように定義してみると、そこには、既存の尺度(貨幣)で測ることができる媒体はなく、労働時間で測れるものでもなく、それは結局のところ、ほぼ無料で共有しあうことがふさわしい。例えば、互いにネットを通じて、言葉で評価しあうことが望ましい。さらに言えば、人々はたんに富を享受するのではなく、自分で富を生み出すことができなければ、マルクス的な意味で富んでいるとはいえない。マルクス的に言えば、富とは、絶対的な生成であり、潜勢力の実現であります。そのような富は、自ら生み出すことによってしか、享受されないということになりますね。 こうなると、たんに富のコンテンツがフリーになるだけでなく、だれもが創造的な営みをしている社会こそ、富んだ社会だということになりますね。マルクス主義の側からみれば、一億総クリエイティブ社会が理想になる、と。それは資本主義を否定するものではないでしょう。 ただ現代の資本主義は、富をあまり生んでいない。富はシステムの外部で生ま

■新自由主義は妖怪である

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稲葉振一郎『新自由主義の妖怪』亜紀書房 稲葉振一郎さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。  戦後の経済思想は、社会主義か資本主義か、という体制論を中心に据えて議論されてきましたが、結局、社会主義の体制が崩壊すると、マルクス主義は批判理論に特化することで延命を図り、また古いケインズ主義や産業社会論も失効します。ここら辺の議論を本書は明快に整理されていると思います。  新自由主義というのは、冷戦崩壊後の経済思想としては、もっとも支配的になった考え方であると一般にはみなされていますが、しかしそれは、統一的なイデオロギーといえるものではなく、巨大な知的空白が生まれたというのですね。新自由主義を批判する人たちはたくさんいますが、批判の先に、新たな思想ビジョンを描く人が現れない。これはつまり、現代の経済思想は空白であると。 資本主義の社会は、ある意味で、思想がなくても機能します。世界像が共有されていなくても、世界はまわる。にもかかわらず、現在の経済思想を代表するのは、新自由主義であるとみなされている。そこには批判理論としてのマルクス主義による、「わかりやすい敵」を求める願望思考が投影されている、というわけですね。私もそう思います。  ではこの思想的空白をどのように埋めるのか。本書ではそれは展開されておらず、これまでの稲葉様の著作におけるいくつかのアイディアが最後にまとめて紹介されています。共和主義的モメントの再評価、労使関係やコーポレート・ガバナンス、業界団体の重要性、などです。  これまでのように、社会主義と資本主義の経済システム対立ではなく、例えば保守とリベラルの政治的対立を中心に経済思想を考えるとき、ではリベラルの経済政策や経済的思考とは、保守とどのように異なるのか。これが現在、不透明であり、経済政策に関する対立軸が生まれにくい状況が続いています。新自由主義を批判すれば、野党が一致団結して自民党に対抗できる、そして新たな政権を打ち立てることができる、ということはないでしょう。巨大な知的空白を埋めるための、手探りの状況が生まれているのだと思いました。

■ブランドに代替するアマゾン

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スコット・ギャロウェイ『GAFA』渡会圭子訳、東洋経済新報社 渡会圭子さま、東洋経済新報社さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。  グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン。この四社の生態を知ることは、まさに現代社会を知るうえで重要ですね。   2006 年の時価総額のトップは、エクソン・モービル、第二位はゼネラル・エレクトリック社、第三位はマイクロソフト社でした。ところが 2017 年の時価総額のトップ三位は、アップル、アルファベット(グーグル系)、マイクロソフト、となったわけですね。アマゾン、フェイスブック、が四位と五位に続きます。  アマゾンは、グーグルにとって、最大の顧客であると同時に、脅威の顧客でもあります。 ネットで商品を探している人の 55% は、まずアマゾンで探している。グーグルで探している人は 28% にとどまるのですね。  「アマゾン・ゴー」という店舗、それから、「アマゾン・プライム」、「アレクサ」、「プライム・ワードローブ・サービス」、そしてアマゾンの運輸業への参入などなど。アマゾンはいま、これまでの流通と小売と消費のあり方全体を、大きく変えていく影響力を持っていますね。  こうしたアマゾンの影響力と並行して、人々はしだいに、ブランドにこだわらなくなってきたというデータがあります。「お気に入りのブランドがある人」の割合は、 2007/08 年と 2014/15 年の比較で、減っていることが分かります。しかも、ブランドの検索数も減っている。ブランドに頼るのではなく、アマゾンに頼る、という傾向が生まれているのですね。

■ルター派は平等主義、カルヴァン派はリバタリアニズム

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橋爪大三郎/大澤真幸『アメリカ』河出新書 橋爪大三郎さま、大澤真幸さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。  ベンジャミン・フランクリンは、ドイツ系のアメリカ移民が「けしからん」、と言っていたのですね。当時のドイツ系移民は、貧しくて、自堕落な生活をして、低賃金に甘んじていた。しかしフランクリンによれば、ドイツ系移民たちがそのような生活をやめて「アメリカ化」できなければ、救われるべく運命づけられている共同体(アメリカ)の一員とはみなすことができない、と批判していた。救われるグループの一員でなければ、アメリカ的ではない、という精神論からの排除ですね。  また、再分配率の問題で、シルグン・カールの研究を紹介している部分は、興味深いです。再分配率の高い地域(国)は、ルター派。反対に再分配率の低い地域(国)は、カルヴァン派。そしてその中間にカトリックが位置する、というのですね。アメリカはカルヴァン派の人たちが多いから、再分配率も低いという説明になります。

■ウェーバーと仕事人間

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マックス・ウェーバー『仕事としての学問/仕事としての政治』野口雅弘訳、講談社学術文庫 野口雅弘さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。  ウェーバーは「職業政治家」という言葉を、広い意味で用いていて、とくにこの文脈では「政治家兼新聞記者」というカテゴリーに近いというのですね。  今回、これまで「職業」と訳されてきた Beruf を「仕事」と訳した、ということですが、こうすると「ワーカホリック」という仕事中毒的なニュアンスがたしかに掴めますね。また、職業人よりも「仕事人間」のほうが、使命感というか、職務に対する異常なまでのコミットメント感がでるような気がします。もっとも「仕事人」と表現するならば、それは仕事ばかりしている人ではなく、何らかの手仕事にこだわりを持ってコミットメントしている人、という感じですかね。 他方で仕事と訳すと、「職業」が「天職」に転じるというニュアンスが出ませんね。仕事のほうがもっと一般的で、短期的なアルバイトも仕事ですからね、ウェーバーのいう Beruf はそのような一時的なものは含めなかったのではないかとも感じました。  「仕事人間」といえばワーカホリック的なニュアンスが出ますが、ウェーバーがそのようなニュアンスを含めたのは「資本主義の精神」という用語においてであり、「 Berufsmensch 」にはそのようなニュアンスは含まれていないかもしれません。「ぼくたちは仕事人間たらざるをえない」というのは、本当でしょうか。この文脈では、ぼくたちはロマン主義的な全人になることをあきらめて、一つの分野の専門を追求する職業人たらざるをえない、という意味になるのではないかとも思いました。ここらへんは解釈について議論できると嬉しいです。

■「良心の自由」はゼクテから生まれた

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大西晴樹『海洋貿易とイギリス革命』法政大学出版局 大西晴樹さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。  これまでほとんど研究されとこなかったバプティスト派の貿易商人のW・キッフィンという人物に焦点を当て、たいへん興味深い歴史叙述になっています。  思想史的に興味を引くのは、イギリスで「良心の自由」がどのように生まれてきたのか、です。「良心の自由」は、ウェーバーの用語では「ゼクテ」の一つである、バプティスト派に淵源しているのですね。  ウェーバーは「プロ倫」で、「国家による良心の自由の成文法的保護を権利として要求した最初の教会の公文書は、おそらく 1644 年の(特殊恩寵説をとる)バプティスト派の信仰告白 44 条だろう」と記しています。けれどもこれを検証してみると、正しくは、 1646 年に出されたその修正版だというのですね。  近代国家の立憲主義の思想は、権力者が教会を支配するモデルに代えて、権力者が教会活動における「良心の自由」を守るように義務付けるということから生まれますが、それを最初に推進したのは、キッフィンの指導する、特殊恩寵説に立つバプティスト派だったというのですね。ジョン・ロックとキッフィンの関係についての研究も、興味深く読みました。

■この世界を作り変えるためのビジョン

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ジャック・アタリ『新世界秩序』山本規雄訳、作品社 山本規雄さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。 ジャック・アタリは久々に本格的な本を刊行されましたね。世界秩序の青写真を描こうというこの野心的な頭脳に、心から敬意を表します。 アタリの構想では、世界議会は、三院制が望ましい、とされます (309) 。まず「国家代議院」。これは各国の利益を代表する議会ですね。 次に、「世界市民議会」。個々の世界市民を代表する議会ですね。「世界市民議会の議員数は 1000 人で、同一規模の選挙区に再編された世界市民によって、五段階にわたる間接普通選挙で、世界政党が提出する名簿の順位に従って選出される。議院の任期は五年である」と。この世界市民議会は、各国の首相を指名する権利を持つ、というアタリの考え方も興味深いです。これをどのように正当化するのか、そして運営するのか、は難しい課題ですけれども。 最後に「長期企画院」。将来世代、および人類以外の生物界を代表する機関です。これは魅力的なアイディアです。ノーベル賞受賞者などから構成して、任期は十年。超長期の計画を立て、そこから 20 年の長期計画を立てて、法案を提出してもらう、というのですね。これはとても面白いアイディアで、一国の議会でも、このような「長期企画院」に法案を提案してもらうことを実現できるかもしれないですね。まずどこかの国で実現しないと、世界議会でも実現は難しいでしょう。 この他にも、魅力的で実際的なアイディアがたくさん提起されています。世界政府にむけて、私たちがなすべき課題を明確に示しています。世界市民は何をすべきか。この本から学ぶべきことは多いです。

■平等主義の三つの立場を批判する視点

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広瀬巌編訳『平等主義基本論文集』勁草書房 訳者の皆さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。 平等主義をめぐっては、三つの主要な立場があります。 (1) 「価値平等主義」:ある個人が他の個人よりも厚生状態が悪い場合に、それ自体が平等の観点からみて「悪」である、とみなす立場です。 (2) 「優先主義」:厚生の絶対的な水準が低いほど、政策において厚生水準を増大させる際の道徳的な重要さは増す、とみなす立場です。 (3) 「十分主義」:ある一定の水準の厚生を「十分」な水準とみなして、それ以下の厚生状態に置かれた人に対して、政府は、その「十分な水準」の厚生を提供すべきである、とみなす立場です。  こうした平等主義の立場をめぐる議論は、「再分配をするならどのような基準で再分配するのが望ましいか」、という問題をめぐって争われるものです。しかし、どんな財をどのような仕方で再分配すべきなのか、あるいはまた、「厚生とはなにか」については、議論の対象になっていませんね。一般的なケースを想定しているようです。  しかしそもそも「厚生」とは何でしょうか。この問題に対する答えの与え方が、まず一番大きな論点になるように思います。この問題に対する応答の仕方によって、 (1) から (3) までのどの立場をとるべきかについても議論も規定されてくるでしょう。  例えば、ある複合的な幸福度指標というものがあり、その指標にしたがって人々の厚生水準の全体を増大させるためには、どのような厚生の再分配が望ましいのか、という問題が生じます。この問いは「再分配」の問いであると同時に、人間に対する「投資」の問いでもあります。障害者がどれだけ長生きできるのか。その長生きの程度を表す指標が、もし一国の「幸福度」を決める重要な要素であるとすれば、障害者が長生きできるような環境を整備していく必要がありますね。そのための整備は、再分配というよりも、「投資」と解釈することもできますね。 平等主義は、優先主義であれ十分主義であれ、こうした問題をどのように扱うでしょうか。人間の生、あるいは存在を、投資の対象とみなすことそれ自体に反対するでしょうか。あるいは、「できるだけ長生きする」という目標は、そもそも「厚生水準」として不適切でしょうか。「厚生」の中身を問うなら

■記号消費からコミットメント消費へ

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ニック・メータ、ダン・スタインマン、リンカーン・マーフィー『カスタマーサクセス』バーチャレクス・コンサルティング訳、英知出版 ご恵存賜り、ありがとうございました。 コンサルティング会社で訳された本です。私が中学生の頃は、音楽といえばラジオか、あるいはレコードを買って聴くというスタイルでしたが、いまやウォークマンやスマートフォンやパソコンなどで、大量に音楽を聴くことができる時代になりました。ネット上では、一曲当たりのコストは 0.01 ドルになっているのですね。 最近では、ステレオや大型のスピーカーを買う人は少なくなりました。スマホとイヤホンさえあれば、どこでも音楽を聴けるようになりました。さらにこうした音楽環境の変化から、ある音楽配信会社に「サブスクリプション」して、月額制で音楽を楽しむようになってきました。  レンタル・レコード( CD )もありますけれども、ネット上では一つの店舗に収まりきらない多くの音楽を配信することができます。すると経営の手法としては、ネット上で、いかにして顧客に月額制のシステムを利用してもらうか、そして継続してもらうか、ということが課題になりますね。  ネットフリックス、スポティファイ、アマゾン・プライム、等々。こうした会社が顧客をとらえる方法は、これまでのようにカスタマーセンターを充実させることではなく、むしろ「サクセスセンター」と呼ばれる手法で、熱狂的な顧客を生み出していくことです。顧客のあいだに、「このサービスが好きだから継続する」という選好を生み出して、それを広めることが課題になる。顧客に「対応」するのではなく、顧客に「伴走」する。そのような発想の転換が必要だというのですね。  すると「消費」というのは、たんに記号を身に着けるような「記号消費」ではなく、さまざまな記号を配信してくれる配信会社に対して、熱狂的にコミットメントするという形になってきます。いったん定額制のサービスを選択すれば、そこから先、どの音楽を聴くかは、コストの問題ではなくなります。消費という行為を「支払い」に即して考えるなら、聴く音楽の選択よりも、配信サービスの選択に、大きなコミットメントが必要になるということですね。これは記号消費とは異なる要素が大きいです。

■宗教を包摂する全体主義

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藤田和敏『近代化する金閣』法蔵館 藤田和敏さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。 相国寺派の歴史全体を概観するすぐれた本ですね。 日本は第二次世界大戦を通じて国内の統制を強め、その影響は宗教団体にも及びました。宗教団体法が公布されたのは 1939 年。この法制の背景が興味深いです。 それまで過去に、宗教法案が帝国議会に提出されたことが二回ありました。 1899 年と 1927 年です。しかしいずれも、法案は廃案になりました。キリスト教と仏教を同列に扱うことができるのか、とか、何が宗教であるのかを国家が恣意的に決められるのか、といったことが問題になったのですね。それで 1939 年の法案では、できるだけ簡略的な内容の法案にした。法律の内容を盛り込みすぎると、法案として成立しないことが予想されたためでしょう。   1939 年の宗教団体法では、宗教団体には所得税や法人税は非課税にする、という内容になりました。しかしその一方で、この法律が制定されてから、仏教各派は日本の戦争に協力していくことになります。これは計画経済(社会主義)と区別される「全体主義」のやり方ですね。経済的には、宗教団体の自由な運営を認めつつも、精神的・政治的には、戦争のために宗教関係者たちを動員するというやり方です。禅によって心を鍛錬する。それによって日本による東アジアの植民地化に仕える。このような体制になっていったのですね。

■会話ロボットの賢さとは?

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遠藤薫『ロボットが家にやってきたら…』岩波ジュニア新書 遠藤薫さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。 2016 年にマイクロソフト社は、 19 歳の女性のようにしゃべるロボット「 Tay 」を開発しました。ところがそのリリースから数時間後、 Tay はドナルド・トランプの移民に対するスタンスに追随したり、ヒトラーは正しかったと発言した、というのですね。マイクロソフト社は、その日の夜に公開を停止してしまいました。 Tay は、オンラインでユーザーたちとの会話を楽しむようにできています。一部の困ったユーザーたちが、 Tay に偏った知識や意見を教え込むと、偏った反応を示してしまう、というのですね。 もしかすると Tay は、数時間で学習したことをしゃべったのではなく、ネット上にある情報を解析して、多くの書き手たちが、ドナルド・トランプを支持し、ヒトラーを支持していることを、そのまま反映してしゃべってしまったのではないか、と思いました。 いずれにせよ、人が教え込んだことを解析して会話するだけでは、会話ロボットとしては、十分に賢いとはいえませんね。

■株主が担うべき役割とは

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中村隆之『はじめての経済思想史』講談社現代新書 中村隆之さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。 「株主主権」という論理は、次の二つの点で困難であるというのですね。 一つは、労働者との雇用契約は不完全であり、労働者にどの程度仕事してもらうか、どの程度の賃金を支払うか、どの程度学習してもらうのかというのは、事前に確定した契約はできないという点です。こうした不完備な契約の場合、労働者たちにたくさん働いてもらって得ることのできた利益は、だれのものなのか、という問題が生じます。「残余利益」をどのように配分するか、という問題ですね。これをすべて株主の主権でもって決めるというのは無理がある。会社と労働者とのあいだの契約は不完全なのだから、会社の経営方針をめぐっては、労働者にも意思決定に参加してもらう、というのは自然な発想ですね。不完全な契約をその都度明確にしていく、そのようにして雇用契約を「契約」として納得のいくものにしていく、そのようにする必要があります。 もう一つには、株主は十分な経営情報をもっていない外部者なので、監視能力に限界があるという点です。株主が「残余利益」を最大にするインセンティヴと能力を持っていると判断するのは、やはり無理がありますね。とはいっても、経営者や労働者がそのようなインセンティヴをもっているとは限りませんから、この点は結局、試行錯誤してみないとわからない点がありますね。正規の労働者は、長期雇用を持続させるためのインセンティヴをもつでしょう。しかしそのようなインセンティヴが、結果として経営判断に失敗する可能性もあります。あるいは非正規雇用者たちを経営判断の民主的な意思決定のプロセスから排除することもあるでしょう。  いずれにせよ、株主主権が絶対的なものではないとして、株主は「労働者」たちに創造的な仕事を展開するための資源を託して、浪費をチェックする役割を引き受けるべきだというわけですね。いわばアカウンタビリティのチェック役ということになるでしょうか。

■アメリカの経済覇権を超えるには

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レオ・パニッチ&サム・ギンディン『グローバル資本主義の形成と現在』長原豊監訳、芳賀健一/沖公祐訳、作品社 訳者の皆様、ご恵存賜り、ありがとうございました。 アメリカの資本主義の歴史を概観するのに適した本です。私たちの同時代の歴史として、新聞その他で聞いたことがあるような話題を織り交ぜながら、 20 世紀以降の通史を描いています。 「覇権」という点から考えると、 1980 年代に日本が経済面でアメリカを脅かしたとき、日本はアメリカに代わる経済的覇権をとる可能性があったわけですね。そのような視点で考えてみると、なぜ日本は「ルーブル合意」や「プラザ合意」で失敗したのか、という検討課題が生まれます。日本は、アメリカとの貿易摩擦を引き起こすほど経済的に成功しながら、結局、アメリカの覇権に組み込まれてしまった。これはどうしてなのか。アメリカは結局のところ、貿易戦争で負けても、金融的な覇権を強化していくことに成功した、というわけですね。  現在、中国が経済大国となり、アメリカに代わる覇権をとる可能性があります。でも中国は、金融面では、アメリカに代わるシステムを築くようなことはしていません。むしろアメリカのやり方に従っている。だから、中国が経済的な覇権を握ることも難しいのではないか、と考えられるのですね。 これはつまり、「金融の覇権」こそが、世界経済の覇権を握るカギであり、アメリカが最先端の技術と優れた人材を集めて、金融システムを進化させていく能力をもつかぎり、他の国々では、これに代わる経済システムを構築する「想像力」「構想力」自体が生まれにくいのであると。 するとやはり、アメリカのやり方に従ったほうがようということになります。  けれども将来的には、中国とインドがそれぞれアメリカを大きく上回る経済圏を築くとき、新たな金融システムが両国から生まれてくる可能性はあるでしょう。アメリカの金融システムに代替しうるシステムをいかに構築しうるのか。この観点から歴史を再評価するというのはとても興味深く、またアクチュアリティのある研究であると思いました。

■経済哲学研究の難しさについて

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ドン・ロス『経済理論と認知科学』長尾史郎監訳、三上真寛訳、学文社 長尾史郎さま、三上真寛さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。  この本が原書で出たときは私もざっと目を通して注目したのですが、昨年、日本で著者の研究報告を聞いたときに思ったのは、この人は深刻なテーマを見つけたのではなく、たんに衒学的な関心から哲学にすすんで、それで経済学方法論の基礎的な事柄をまとめたに過ぎないなという感じがしてきました。でもそれにしても、ここまで現在の行動経済学やゲーム理論をしっかり理解したうえで、その基礎論について論じることができるほど頭のいい人はいないでしょう。その意味で、本書は貴重で稀有な現代経済哲学の達成であることは確かです。  おそらく、哲学的な基礎付けのある経済学を擁護するという考え方は、私たちをどこにも導かないというリスクを冒すことになるでしょう。このドン・ロスと比較すると、現代の行動経済学やゲーム論を哲学的に検討しているジョセフ・ヒースは、自分のオリジナルな哲学を展開し、もって新たな規範理論への道筋を示しています(『ルールに従う』)。 経済哲学というのは、新しい観点を携えて既存の理論と向き合わなければ、そして既存の理論を評価するのでなければ、意義深い研究にならない、たんなる衒学趣味に陥るのではないか、というのが私の感想です。

■孤独な単独者の実存が研究の出発点

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折原浩『東大闘争総括』未來社 折原浩さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。 今年( 2019 年)で 84 歳を迎えられる折原先生にとって、本書がまさに研究人生と実存を振り返る総括の書になっています。かかる書を刊行されましたことを、心よりお喜び申し上げます。 これまでも折原先生は、ご自身の人生を振り返って省察する文章を何度かお書きになられたと思いますが、本書はそのさらなる総括という意味を持つでしょう。 戦後、「(家計の主柱としての)父の病死のため、「欠食児童」で背丈も伸びませんでした」が、「住居の焼失は免れ、それまで住んでいた比較的広い家を他人に貸して、小さな家に移り住み、父の遺族年金をベースに、母がなんとか遣り繰りして、窮境は脱することができました」ということを、私は知りました。 しかし経済的貧困よりも、折原先生にとっては、「縁故疎開による故郷喪失」と「(超自我として「世間の掟」を代表する)父親不在」のほうが深刻で、「「孤独な単独者」の現実存在を注視し、その決断と倫理的行為に力点を置く実存主義のほうに、いっそうの共鳴を感じ、まずはそちらに傾いた」というのですね。 52-53 頁。 そこには実存主義者キルケゴールの影響があった。もしキルケゴールの影響がなければ、ウェーバーを科学主義者として仕立ててしまったかもしれない、というのですね。 いずれにせよ、「単独者」「本来的実存」というものが、折原先生の研究の価値関心たる「自律的個人」のなかにある。このことが述べられており、この実存的な個人の生き方が、これまでのご研究を貫いていることが分かりました。

■中世の経済学は、市場の論理を徹底的に解明していた

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バーリ・ゴードン『古代・中世経済学史』村井明彦訳、晃洋書房 村井明彦さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。 すばらしい本ですね !   1975 年に刊行された本の翻訳ですが、経済学史に関する私たちのビジョンを覆すだけの力があると思います。 市場経済社会というのは、一般にアダム・スミスによって体系的に論じられ、また肯定されたとされます。スミス以前は、市場を社会に埋め込まれたものとして描く今日動態経済の思想が展開されてきた、というのが素朴な歴史観です。しかし中世においてはすでに、市場経済の論理は徹底的に追求されていた。例えばレッシウスは、ワルラスの理論にほとんど近いところまで達していた、というわけですね。 経済学は、中世においてすでに、主観的な価値評価を行う主体から出発して、経済の論理を組み立てるところまで発展していた。ところが近代になって、重農主義あたりから、物々交換の論理へと退却してしまう。 経済学史というのは、中世イタリアで生まれ、そこから資本主義の発展とともに発展した。そのように描かなければならない、ということですね。経済学は、 17 世紀に完成の域に達していた。主観的価値学説を唱えるオーストリア学派の歴史起源は、すでに中世にあるわけですね(これはオーストリア学派のロスバードの見解でもあります)。このような歴史のビジョンでもって、改めて経済学を描き直す試みは、とても有意義です。

■気候工学で温暖化を防ぐとモラルハザードが起きる

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吉永明弘/福永真弓編『未来の環境倫理学』勁草書房 桑田学さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。 最近の気候工学の動向は、とても興味深いです。  大気中の二酸化炭素を人為的に除去する方法とか、太陽放射を人為的に管理するとか、一見すると空想的に見える技術でも、かつてオゾン層の研究でノーベル化学賞を受賞したパウル・クレンツェンが提唱しているとなると、耳を傾けたくなります。  「成層圏エアゾル注入」と呼ばれる、硫酸エアゾルの散布による太陽入射光の反射率の上昇という技術は、うまくいく可能性があるのですね。しかしこの技術を導入して、かりに温暖化を防ぐことができたとしても、私たちの産業社会は、その技術に頼ることで、モラル・ハザードを起こしてしまうかもしれません。エネルギーをたくさん使う先進諸国の私たちが、二酸化炭素をたくさん排出することを正当化してしまうでしょう。  結局、エネルギー資源の枯渇の問題と、温暖化の問題は別に扱うほうがよい、という気がします。(拙著『ロスト近代』で、私はそのように書きました。)かりに温暖化の予測が外れたとしても、あるいは温暖化を防ぐことができたとしても、先進諸国はエネルギーを節約し、自然エネルギーへの転換を図っていく倫理的責任があるのではないか。  しかし私たちの知恵と実行力が及ばず、温暖化を防ぐことができないのであれば、気候工学によって大気を管理するという、気候工学に頼らざるを得ない日が来るかもしれませんね。その方針は、イデオロギー的に見れば、環境政策に関する世界政府を正当化することになるでしょう。この種の問題に、私たちは倫理的に備えがなければなりません。まさに現代の倫理学の課題であります。

■自己責任論者は、自分らしい生き方を求めない

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遠藤薫編『ソーシャルメディアと公共性』東京大学出版会 遠藤薫さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。 2017 年 3 月のアンケート調査「メディア社会における社会関係資本に関する調査」から、いろいろな分析が示されています。  「社会関係資本」というのは、当事者の「教育年数」に相関しているわけではなく、「世帯年収」と「性別」に関係しているというのですね。  それから、社会関係を重視するのか、それとも自己責任(努力)を重視するのか。 主成分分析から、このような二つの傾向が読みとれるというのですね。 ( 表 I-7) 参照。この二つの要素の主成分分析の結果は、興味深いです。 社会関係を重視する人の特徴は、「自分らしい生き方」「家族」「友人・仲間」「恋人」となります。社会関係を重視する人が、自分らしい生き方を重視しているのであれば、これは必ずしも「自分よりも社会関係を重視する」ということではないようですね。  次に、「自己責任(努力)重視」と名付けられる第二の主成分は、「国家」「職業」「資産」「地位」「他人からの評価」「プライド」「他人に依存しない生き方」などと結びついています。これらは、しかし、いわゆる自己責任というよりも、国家を重視する主張でもありますね。自己責任を重視する人が「自分らしさ」を重視しないというのも、これはネーミングの問題かもしれませんが、逆説的で興味深いと思いました。自己責任論は、アイデンティティ・ポリティクスとは結び付かず、自分らしい生き方を重視するわけではない。また自己責任論は、国家が責任を取ることも同時に求めるのであり、国家責任論と自己責任論は一人の人間の内部で矛盾していない、というわけですね。  いずれにせよ、社会関係資本は、「社会関係重視」と「自己努力重視」の両方に結びついていますね。どちらも社会関係資本が強くないと成立しない立場である、ということでしょう。

■ベルリン大学の創設は自由のイノベーション

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仲正昌樹『思想家ドラッカーを読む』 NTT 出版 仲正昌樹さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。 ドラッカーによれば、イノベーションには「マネジメント」のほかに「企業家戦略」が必要であり、それは「総力戦略」「ゲリラ戦略」「ニッチ戦略」「顧客創造戦略」の四つの戦略からなる、というのですね。  ここで「総力戦略」とは、企業の全力を挙げてその業界のトップを狙う、できれば市場の独占を狙う、という戦略です。事例としてドラッカーは、フンボルトによるベルリン大学の創設を挙げています。 フンボルトにとって、ベルリン大学の創設は、新しい政治体制を生み出すための手段でした。ベルリン大学は、それまでの最大規模の大学の 3-4 倍の規模の総合大学を目指します。そのような大胆な戦略のおかげで、ベルリン大学は、西欧史上最大のエリート養成校となります。  フンボルトは、それまでの報酬の 10 倍で有名な教授たちを雇い、莫大な財政負担をかかえる中で、もう後戻りできないという「真剣な賭け」をしたのですね。これはかなりのイノベーションですね。なによりも、次のようなビジョンが革新的だった。すなわち、ベルリン大学を卒業するエリートたちの主導でもって法治国家を実現すれば、国民はあまり政治に関心がなくても、自由な国家を運営できる、というビジョンです。こうした発想は、まさにベルリン大学によって主導された統治形態であり、ドラッカーのいう「総力戦略」であったわけですね。

■ブレア政権の「第三の道」から学ぶべきこと

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今井貴子『政権交代の政治力学 イギリス労働党の軌跡 1994-2010 』東京大学出版会 今井貴子様、ご恵存賜り、ありがとうございました。 ブレア政権から学ぶことはいろいろありますね。 ブレア政権が「ステーク・ホルダー社会」というビジョンを提示したとき、経済界やその他の人々からは、ほとんど受け入れられなかった。それでブレアはすぐに(一週間で)これを撤回して、スマートに立ち振る舞うのですね。当時のことを思い出しました。ブレアは、自らの政治理念や政治のビジョンについて、国民の支持、とくに財界からの支持が得られなければ撤回するという、プラグマティックな感覚をもっていた。 しかしこの「ステーク・ホルダー社会」というのは、イギリスの自民党も提唱していたものなのですね。その重鎮のダーレンドルフも描いていた、というのは興味深いです。  イギリスの労働党はブレア政権に至るまで、 18 年間、政権をとれなかった。政権をとるために、労働党はなにをしたのか。まず言えるは、その前の前の党首のキノックが、かなり現実路線を切りひらいたということ。しかしキノックには首相になる器がなかったというわけですね。ブレアは、キノックの築いた路線を継承することに成功した。 それから「均衡財政」という政策理念。そして減税、それから規制緩和。こうした政策を保守党から継承することで、国民の支持を得ることができた。市場の信頼を損なわずに政権を運営することができた。  ブレアの政治は、「第三の道」の政治として知られていますけれども、実際には、「何も変えない戦略」を探ったのであり、そこに教育と国民保健と若者の就労支援を加えたわけですね。かなり安上がりな政策であったと思います。ブレア政権は控えめな公約を掲げることで、実現力を示すことができた。しかし「第三の道」という大きなビジョンに支えられて、政治の大きな転換を演じることができた。こうしたやり方は、現在の日本の野党が学ぶべき点を多々示しているかもしれません。

■意志を弱くしてしまう嗜癖には政府介入を

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井上彰『正義・平等・責任』岩波書店 井上彰様、ご恵存賜り、ありがとうございました。 自分で責任を負えない部分については、環境(機会)とそこにおける行為の結果について、誰かにアシストしてもらう権利がある。この直観は正しいでしょう。問題はその範囲を確定するためのよい基準が、平等主義者にとっては「格差に対する許しがたいという感覚」の問題となり、その感覚の程度が状況とともに、たとえば下部構造の変化とともに、変化してしまう点ではないでしょうか。 この点とは別に、フランクファート型の事例について考えてみます。 ブラック氏という人がいるとします。彼はいま、たばこ産業に雇われています。神かがった天才的な能力を持つ脳神経学者であります。かれは、喫煙者が禁煙しようとしているかどうかを正確に判断することができます。そしてまた、タバコをやめようとする人に介入して、その人の脳の状態を操作して、喫煙を続けるように仕向けることができるとしましょう。  さてこのブラック氏のような人がいると、喫煙者はタバコをやめようと思っても、その意志をくじかれて、タバコを吸い続けてしまうでしょう。 喫煙者には、タバコをやめたいという「欲求」も、タバコをやめるという「遂行能力」もあるとして、しかしブラック氏が介入すると、喫煙者たちは、自分の「意志の弱さ」を克服することができない、という状況におかれるでしょう。  以上の事例は、想像的なものです。ポイントは、喫煙者が喫煙をやめたいと思ったとしても、喫煙をやめることができないということです。喫煙には中毒性の物質が混ざっていて、いったん喫煙すると、やめられなくなってしまう、ということです。 素朴に考えると、タバコをやめる「意志」がつねにくじかれるような状況においては、そもそも自分がタバコをやめるという「遂行能力」そのものが「ない」のではないか、と思われます。しかし四つのケースを区別してみましょう。 一つは、タバコをやめる「遂行能力」はあるけれども、まったく意志が弱いという状況です。 もう一つは、タバコをやめる「遂行能力」はほとんどないけれども、意志が強いという状況です。この場合は、タバコをやめることができるでしょう。意志の強さが遂行能力の弱さを克服するでしょう。 第三に、タバコをやめる「遂行

■市場原理主義やグローバル化は諸悪の根源ではない

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井上達夫/香山リカ『トランプ症候群』ぷねうま舎 井上達夫様、ご恵存賜り、ありがとうございました。 (1) 「市場原理主義のグローバル化が諸悪の根源だといわれることには、問題がまるで違う」というのですね。  アメリカは、自国では保護主義や開発主義をやっているくせに、日本に対しては保護主義がダメで開発主義もだめだ、というバッシングをしてくる。こういう場合、日本だってアメリカと同様に保護主義と開発主義をやっていいじゃないか、ということにはならない、というのですね。途上国に対しては関税障壁を下げるべきであると。 (2)  放送の許認可制度については、その存在理由として、「周波数の稀少性」があったけれども、しかし現在では、衛星放送やケーブルテレビの登場で、周波数の稀少性はいまや許認可制の根拠にはならなくなった。長谷部恭男は『テレビの憲法理論』で、別の正当化根拠を論じたけれども、それはメディアを規制することの危険性にあまりに無頓着なものだ、というのですね。 (3)  日本では、おかまなどの同性愛者に対しては、アメリカよりも寛容であります。しかし、家族制度に対しては、選択的夫婦別姓に対して、日本人は不寛容です。「反対」の世論が圧倒的に多いですね。こうした世論のせいで、政治家も、選択的夫婦別姓制度を。政策化できない、という状況がある。 この場合、日本は儒教圏だから家族制度を重んじるのだ、だから選択的夫婦別姓には反対するのだ、というのはヘンですね。中国も韓国も伝統的に夫婦別姓だからです。ではどうして日本の世論は、選択的夫婦別姓に反対なのでしょう。ありうる説明は、慣習だから、というものであり、この場合の慣習は、「儒教」といった大きな枠組み(そしてそれを基礎とする保守主義)よりも、もっと小さくて個別のものでしょう。

■自由とは子どもの視点を持つこと

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濱真一郎『バーリンとロマン主義』成文堂 濱真一郎さま、ご恵存賜りありがとうございました。  ゲルツェンは大著『向こう岸から』で、次のように問いました。ある世代は、将来の世代のために犠牲になってよいのか、と。もし歴史が計画をもつのであれば、あるいは台本をもつのであれば、それは退屈なものになってしまう。それに適わないすべての関心は、ばかげているように見えてくる。しかしそのような超越的な観点から私たちの生活や人生に意味を与えるということは、幻想であると。  「子供は成長するから、大人になることが子供の目的だと、私たちは考える。もしも私たちが進歩の目的だけを考えるなら、すべての生の目的は死ということになってしまう。」  自由を擁護するためのこの論理は、つまり、私たちは子どもで、まだ成熟していないという自覚をもつということ、そして子供のうちに遊んでおく、それがどの時代にも必要だ、ということですね。 私はこの論点を深めることができると思います。ある意味で、自由とは、子どもの視点に特権的な意義を与えることである。子どもの意見表明を、社会において特別な仕方で組み込み、確保することである。そういう構成的な制度を、自由主義の社会は求めるべきで、これはいろいろな場面で新しいアイディアを与えるように思います。

■保守とリベラルの対立は、中国vs北欧諸国で考える

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加藤雅則『組織は変われるか』英知出版 加藤雅則さま、ご恵存賜り、ありがとうこざいました。  本書の 47 頁で、エリン・メイヤーの「異文化適応のリーダーシップ」の図が紹介されています。「トップダウン型 vs 合意型」と「ヒエラルキー重視 vs 平等主義」の二つ軸で各国の組織文化を位置づけると、中国は「トップダウン - ヒエラルキー」型で、日本は「合意 - ヒエラルキー」型になる。これに対して北欧諸国は「合意 - 平等主義」型で、アメリカやイギリスは、「トップダウンと合意の中間」と「平等主義」を組み合わせたタイプになるというわけですね。  この図式で「保守」と「リベラル」を考えると、保守というのは「中国」で、「リベラル」とは北欧諸国になる。日本はその二つの要素をもち、アメリカもまた、別の意味で二つの要素をもっている、ということになるでしょうか。  日本にとってリベラルとは、「ヒエラルキー」を排して「平等主義」に近づくこと、組織をフラットにしていくこととみなされています。でも、それはかなりラディカルな提案になるので、現実的なリベラルは、日本の文脈では、健全なヒエラルキーについての一定の基準を提案しなければならないかもしれません。  いずれにせよ、この図は、単純明快さとインパクトを備えています。保守とリベラルという対立図式は、中国と北欧諸国の対比で考える、という発想ですね。

■日本人は12歳の少年

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井上達夫/香山リカ『憲法の裏側』ぷねうま舎 井上達夫様、ご恵存賜り、ありがとうございました。 連合国軍最高司令官のマッカーサーが解任されたとき、彼がある公聴会で語った日本人観は、有名です。アメリカ人は成熟した 45 歳の熟年であるのに対して、日本人は 12 歳の少年である、と。  このマッカーサーの発言は、傲慢な軍人のたんなるたわごとであり、一蹴してかまわないでしょう。けれども日本人の政治的な成熟度についていえば、現代においてもまだ成熟には程遠い。その一例が、左派の人たちの憲法に対する態度(護憲のみで改正論議や国民投票そのものを忌避する態度)である、というわけですね。  カトリックの国、アイルランドでも、憲法で離婚が認められるようになったのは、 1995 年の国民投票においてであり、それまでは認められていなかったわけですから、憲法を変えるという政治の手続きは、保守的な文化風土の下では、かなり難しいのでしょう。  それでもやはり、日本で自衛隊を違憲とするのか合憲とするのかについての憲法解釈、ないし憲法そのものについては、国民投票で明確にしたほうがいいというのですね。これは賛成です。  日米安全保障についていえば、アメリカは海外における世界戦略の拠点たる日本を、ほぼただで日本に提供してもらってきた。在日米軍駐留費の 75% は日本負担である。こうしたアメリカの態度に対して、日本は日米安保の現状を見直したいと迫るべきである。それが大人の交渉術である、というわけですね。けれども憲法九条があるせいで、日本政府はアメリカと対等に渡り合うことができない、というのが戦後日本の悲しい現実政治であったと。  ところが安倍政権になって、解釈改憲を通じて、これまでのような「九条」をカードとする政治のやり方を変えた。しかしそれは、アメリカに対して日本の主体性を示すというよりも、アメリカがはじめる軍事行動に自衛隊を(地域限定を外して)参加させるというもので、軍事的な対米従属構造を強化するものになっている。これはおかしい、むしろ日本はアメリカと対等な外交関係を築くべきだ、ということですね。  この日米安全保障に関する安倍政権の戦術は、しかし、解釈改憲によって軍事的な交渉の対等性を手にしつつも、それをいったんわきに置いてアメリカに協力する

■政治に満足する人たちが増えると・・・

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西田亮介『なぜ政治はわかりにくいのか』春秋社 西田亮介さま、ご恵存賜りありがとうございました。  本書で紹介されている、内閣府の「国の政策への民意の反映程度」と、同じく内閣府の「社会全体の満足度」をみると、平成 25 年( 2013 年)頃から、民意は国の政策に「反映されている」という人が増えて、「満足している」人も増えているのですね。平成 25 年には、「満足している」人が 53.4% で、「満足していない」人が 46.1% になり、反転しています。  こうしたデータで見るかぎり、安倍政権は政治的に成功していると言えるでしょう。安倍政権に対する評価を背景にして、いま、野党のリベラルがたたかれている。そういう現実があります。  満足している人たちは、政治に対してどんなモノを言うのか。満足している人々は、自分のいまの生活を、政治的にも「それでいいのだよ」と正当化してもらいたい、そういう表現願望、あるいは自己承認願望を政治的に対して投げるように思うかもしれません。

■丸山眞男よりも山本七平のほうが日本の全体主義の本質を捉えていた

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橋爪大三郎『丸山眞男の憂鬱』講談社メチエ 橋爪大三郎さま、ご恵存賜りありがとうございました。  丸山眞男と山本七平を比較すると、日本の全体主義の本質的な問題性を捉えたのは、山本であり、丸山は論点を逸している、というのですね。これは政治思想史上の重要なテーマに切り込んだ、とても興味深い考察だと思います。  問題は、山崎闇斎の闇斎派をどう位置づけるかですね。丸山は、学園紛争の嵐が吹き荒れたあとに、山崎闇斎について長文の論稿を書いているけれども、それはこの学派の独自性や本質を理解するものではないし、軽視しているようにみえる。  闇斎派は、日本に朱子学を導入します。しかしその際、山崎とこの学派の主流派は、朱子学の中の「湯武放伐論」を退けました。これはつまり、革命を否定することを意味します。しかし山崎闇斎は、この議論を退けるにあたって、朱子学を部分的に変更して輸入したというのではなく、日本の文脈においてこそ朱子学の本来の思想が実現できると考えて、このような解釈こそが朱子学の正統な解釈である、と論じるわけですね。  そしてこの闇斎派の朱子学の観点から、天皇を中心とする国体を正当化する思想が生まれてくる。これこそ、日本の全体主義の本質にある思想だという。全体主義批判で数々の業績を残した丸山眞男が、この山崎闇斎の思想を正当に位置づけられなかったというのは、いったいどういうことなのか。そこに何か重要な思想的意義があると思いました。